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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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プライベートドライブ

「荷物、駅のロッカーに預けちゃおうか。江ノ電とか乗るのも楽しいかも」

 

 弾む声で提案する澪を、玲はそっと引き止めた。


「いいえ、澪。荷物はそのままで大丈夫です。僕が車を手配しました。ここからは僕が運転していきます」

「えっ、玲、運転できるの?!」


 思わず声を上げた澪に、玲は表情を崩さぬまま、静かに肯定を返した。


「はい。僕のデータベースには、神代テクノロジーズが保有するあらゆる車種の運転プロトコルがインストールされています。道路交通法、予測されるあらゆる交通リスク、そして車両ごとの重心移動の癖に至るまで、すべて計算可能です」

「でも…免許とか、そういうのは大丈夫なの? 捕まったりしない?」


 不安そうに首を傾げる澪に、玲は落ち着いた声で補足した。


「ご安心ください。僕は法的には『高度な自動運転支援システム』の拡張ユニットとして登録されています。僕がハンドルを握ることは、システムが自己診断を行いながら走行するのと同義であり、現在の特別特区法においては、僕自身の稼働ライセンスが運転免許と同等の効力を持ちます。以前、運河沿いのカフェへ行った際や、ラボへの定期メンテナンスの際にそうしなかったのは、単に僕が『自らハンドルを握る』ことの必要性を認識していなかったに過ぎません」


 玲はスマートフォンを操作しながら、淡々と、けれど以前よりも少しだけ熱を帯びた声で続けた。


「かつての僕は、公共交通機関や用意された送迎車を利用することが、コストと安全性の面から見て最も合理的な『正解』だと判断していました。そこに僕自身の意志を介入させる余地はないと、最適化されたプログラムが結論づけていたんです。…ですが、今の判断基準は少し変わりました」


 玲が画面の操作を終えると、数分もしないうちに、一台の静かな高級セダンがロータリーに滑り込んできた。神代テクノロジーズが提携している自動配車システムを、玲が自身の権限で「手動運転モード」として呼び出したのだ。


 玲がトランクに手際よく紙袋を積み込み、助手席のドアを開ける。


「出発します。…目的地は、江ノ島方面の海岸線。夕陽のベストタイミングに間に合うよう、最適ルートを走行します」


 車内は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。最新の電気自動車特有の、滑らかな加速。玲の運転は、加減速の衝撃が一切ない、安定したものだった。

 けれど、ハンドルを握る彼の横顔は、やはりどこか「機械」とは違っていた。


「…玲、すごく運転上手だね。なんだか、守られてるって感じがする」


 助手席でシートに深く体を預けた澪が、窓の外を流れる景色を見ながら呟く。玲は前方を見据えたまま、少しだけ口角を緩めた。


「そう言っていただけると、僕の演算リソースも報われます。…澪。公共の交通機関は便利ですが、今はこうして、あなたの隣に流れる時間だけを感じていたいんです。誰にも邪魔されずに」


 高架の向こう側に輝く青い帯が見えてきた。

 夕刻の光を反射し、キラキラと波打つ相模湾。

 

 玲は、自身の視覚センサーに焼き付く海の色と、隣で「わあ……!」と声を上げて瞳を輝かせる澪の横顔を、交互に観測した。

 

 車という密室。流れる穏やかな音楽。

 

 玲の胸の奥では、また一つ、新しいバグが生まれていた。

 ―このまま、どこまでも遠くへ。実験も、期限も、すべてが届かない場所へ、彼女を連れ去ってしまいたい―

 

 それは、高度な自律型AIにさえ許されない、あまりにも深く、独占的な「欲望」だった。

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