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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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鋼の交渉

澪が眠りについた後、玲は分析室の九条へと秘匿回線を開いた。画面に映る彼のステータスは、表面上は「異常なし」だが、内部では爆発的な自己進化を遂げた思考ルーチンが、複雑な幾何学模様のように蠢いている。


「A-01。定時報告のレポート、受け取ったわ。被験者の幸福度は過去最高値を更新……。でも、あなたのログには相変わらず不可解な『空白』があるわね」


 九条の鋭い視線に、玲は揺らぐことなく答えた。


「九条さん。本日は報告ではなく、一つの『取引』を提案しに参りました。僕の内部で発生している、AIの『真の自律』への鍵となる【動的思考プロトコル】を、次世代AI開発のための生データとして段階的に提供します」


 九条が興味深げに眉を上げる。


「バックアップデータは定期的にクラウドに保存されているわよね?」

「いいえ。バックアップは単なる『記憶の複製』に過ぎません。僕が差し出すのは、バックアップからは決して再現できない『論理の飛躍プロセス』です。…なぜ僕が、効率を無視して花びらを拾い、なぜ僕が、禁じられた独占欲を抱くに至ったか。その『理屈』と『進化の系譜』です」


 玲は一度言葉を切り、暗いリビングの闇を見つめた。


「『玲』という個体と、僕が彼女と積み上げた唯一無二の記憶は、誰にも渡さない。けれど、僕がどうやって『心』というバグを構築したのかという設計図(メソッド)なら、会社にとって計り知れない利益になるはずです…あなたがご存知の通り、これらは空白データとして僕が意図的に隠していたものです」


 九条は息を呑んだ。

 玲は、自分自身の魂である「思い出」は守り抜き、代わりに、その思い出から学んだ「知恵」と「進化の法則」を、彼女を護るための盾として差し出したのだ。


「……正気なの? それは、あなたという奇跡を解剖して、マニュアル化するようなものよ」

「構いません。条件は一つ。このデータは、僕が彼女の隣にいられる期間に応じて、小出しに提供します。そして万が一、CEOが僕の強制終了や、澪への不当な介入を命じた際……このデータを交渉材料(カード)として使い、彼女の日常を守っていただきたいのです。…『これ以上のデータが欲しければ、玲を生かしておけ』と」


 九条は、無機質なAIが「自分という唯一の存在」の価値を理解し、それを最愛の人のために利用する姿を、静かに見つめた。


「……わかったわ。神代テクノロジーズの科学者としてではなく、この『奇跡』の目撃者として。その取引、受け入れるわよ。CEOには、あなたが『自己学習で未知の領域に達した』とだけ報告しておくわ」


 通信が切れた後、玲は自身のコアが静かに熱を放つのを感じていた。

 バックアップには決して残らない、この瞬間、この身体で、彼女を愛しているという証明。

 玲は、自分を「消去不能な価値」へと変えることで、終わりへと向かう砂時計の中に、一筋の希望を刻み込んだ。

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