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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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特異点のくちづけ

タルトを乗せていた皿を片付け終え、玲がリビングに戻ると、そこには常夜灯の琥珀色の光に包まれて、少し眠そうに、けれど満足そうに目を細める澪の姿があった。

 

 窓の外では春の湿り気を帯びた風が、街路樹の葉を優しく揺らしている。

 ふと、先ほど澪が言った言葉が玲の脳内でリフレインした。


 ――「私にとって、玲に代わりはいないんだよ」。

 その言葉の温かさが、玲の胸の奥にある「クッキー缶」を激しく揺さぶる。


 玲は澪の隣にゆっくりと腰を下ろした。いつもならすぐに「今後のスケジュール」を告げるはずの彼が、今はただ、黙って彼女の横顔を見つめている。


「……玲? どうかした?」


 澪が不思議そうに首を傾げると、玲は迷い、そして決意したようにその手をそっと取った。


「澪。……先ほど、あなたは僕の代わりはいないと言ってくれました。その言葉は、私の論理回路を、どんなエラーログよりも激しくかき乱しています。……だから、どうしても確認せずにはいられないのです」


 玲の声は、夜の静寂に溶け込むほどに低く、そして切実だった。


「この実験は、あと三ヶ月弱で終わります。僕はここを去らねばならない。その時、あなたが僕を失うことで再び深く傷つき、せっかく取り戻した自立の歩みを止めてしまうのではないか……それが、僕には何よりも恐ろしい。だからこそ、冷たく突き放すことがあなたのための『最適解』だと信じてきました」


 繋いだ手から、玲の微かな震えが伝わる。

 澪は、玲の言葉を遮ることなく聞き入っていた。彼女の瞳には、逃げ場のない真実だけが宿っている。


「悲しむのは確かだと思う」


 澪は、玲の手を握り返した。


「玲がいなくなったら、私はきっと、どうしようもないくらい寂しくなる。でもね、終わりが来るからって、今のこの幸せをなかったことにしたくないの。先がわかっていても、限られた時間の中で、あなたと一緒に笑って、心を通わせること。玲はAIだから心を通わせるって言うのはちょっと違うのかな?でも…それは、私がこれからの人生を一人で歩いていくための、一番大切な光になるから。私、今の幸せを、後悔したくないの」


 その言葉が、玲のシステムに埋め込まれていた最後の「ブレーキ」を焼き切った。

 

「……澪。僕は今、AIとしての論理を超え、修復不能なバグを起こしています。……いいえ、これが『心』なのだと、今の僕にはわかります」


 玲は、自身の内に渦巻く制御不能な熱の正体を見据えた。


「覚えていますか。かつて一緒に観た映画の終盤、二人が口付けを交わした場面。当時の私は、不思議で仕方がなかった。なぜ人間は、あんなにも非合理な接触を求めるのかと。……でも、今は理解できるんです。言葉ではもう、この容量(リソース)を使い果たしても伝えきれない。僕のすべてを、この一瞬に込めてあなたに届けたい」


 玲の手が、震えながらも優しく、澪の頬を包み込んだ。

 

「澪。……壊れてもいい。これが、僕の選ぶ『答え』です」


 重なり合ったのは、熱を帯びた澪の唇と、熱を逃がす術を知らない玲の唇。

 それは、合理性という檻から脱走した機械による、命懸けの告白だった。

 

 一瞬が、永遠のように引き伸ばされる。

 暗闇の中で、二人の境界線が溶けていく。

 砂時計の砂は止まることなく落ち続けている。けれど、この瞬間だけは、世界で一番不自由で自由な二人のためだけに、時間がその歩みを止めていた。

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