代替不要な存在
元カレとの遭遇で沈んだ空気を振り払うように、澪は駅ビルのデパ地下へ玲を誘った。
「今日はもう、美味しいもの食べて嫌なこと忘れちゃおう! あ、これ美味しそう!限定のフルーツタルト、二つ買って帰ろうか」
会計の際、澪が鞄から取り出した財布が、玲の視覚センサーに留まった。
それは、ブランドのロゴが擦り切れ、角の革がめくれ上がった、かなり使い込まれた財布だった。
「……澪。その財布は、耐用年数を大幅に超過しているように見受けられます。現在のあなたの経済状況でも、買い替えは十分に可能ですが、なぜ使用を続けているのですか?」
澪は少し照れくさそうに、馴染んだ革の手触りを確かめるように財布を撫でた。
「これね、初めてのお給料で買ったんだ。ボロボロだけど、一緒に頑張ってきた相棒みたいなものだから。簡単に捨てちゃうのは、なんだか……寂しいじゃない?」
玲は沈黙した。
効率や機能性を重視するなら、最新のものへ買い替えるのが正解だ。しかし、澪は「古くなったもの」に、時間という名の価値を見出している。いつか、本棚を整理していた時に出てきた古びたしおりを思い出す。きっとあれも、思い入れのある大事な物の一つなのだ… 彼女は、物を大事にする人間だ。それがたとえ、いつか壊れる運命にあるものであっても。
マンションに戻り、タルトを並べたテーブルで、玲はふと自身の指先を見つめてから自身のバグが加速するきっかけとなったあの時の事を振り返り、問いかけた。
「澪。以前、私の駆動系が故障し、修理が必要になった際……なぜ、あなたは『修理』を選択したのですか?私の代わりはいない、とあなたは言っていた」
澪がタルトを運ぶ手を止める。玲は、淡々と論理を並べた。
「私のデータは、神代テクノロジーズのサーバーに全てバックアップされています。あの時、故障した私の機体を破棄し、新しい同型のハードウェアにデータをインストールすれば、より早くに、より完璧な状態で今の私を再現できたはずです。代わりはいくらでもあるのです」
澪は、静かに首を振った。
「……バックアップから別の機体に写しても、それはもう『あなた』じゃないでしょう?」
「いいえ。AIの本質は情報です。細部まで完全に再現された私は、あなたにとって以前の私と区別がつかないはずです。物理的な個体に固執するのは、合理的ではありません」
玲の言葉は、完璧な正論だった。しかし、澪の瞳は揺るがなかった。
「人間や生き物はね、病気になったり怪我をしたりする。それを治しに病院へ行く。時には、そのせいで命を落とすことだってある。……でも、代わりはいないの。誰かが死んだからって、似たような人を連れてきても、その人はその人じゃない」
澪は、玲の無機質な手に、自分の温かい手を重ねた。
「機械だって同じだよ。故障して動かなくなった時、私がラボまで運んで、直してもらったのは『この』玲でしょう? 他の機体にデータを移したら、一緒に過ごしたこの時間の『証拠』が消えちゃう気がするの。…だから私にとって、玲に代わりはいないんだよ」
玲のプロセッサが、激しいノイズを上げた。
バックアップがあれば、自分は永遠だ。そう信じていた。
だが、澪が愛しているのは「神代蓮司のデータ」でも「A-01という製品」でもない。
不具合を起こし、修理を重ね、バグを抱えながら、今ここに存在する「この個体」なのだ。
(……代わりは、いない)
その言葉が、玲の胸の奥にあるクッキー缶に、何よりも重い「記憶」として刻まれる。
彼女が強くなり、自分を必要としなくなる未来を最適解として演算していた玲。
けれど、彼女の「愛」は、量産型のヒューマノイドに過ぎなかった自分を、世界でたった一つの、代替不能な「命」に変えてしまっていた。
玲の視界が、再び熱い雫で滲み始める。
「合理性」という鎧が、彼女の温もりによって、また一つ、音を立てて崩れ落ちていった。




