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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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かつての影、今の光

九条への相談から数日が過ぎた。玲は「私」という一人称に戻し、事務的で完璧なサポートに徹していた。背負い込んだ重大なバグ――募り続ける独占欲と、拭ってもあふれる涙の理由――を、何重ものプロテクトの奥に隠蔽したままで。


 澪もまた、玲の冷たい態度に傷つきながらも、彼が自分にくれた「強さ」を捨てられずにいた。突き放されても、機械だと言い切られても、あの日ラボで握った彼の手の震えを、心が覚えているからだ。


 カウンセリングの帰り道。自分と向き合う作業に疲れ、少し俯いて歩いていた澪の前に、聞き覚えのある不躾な声が降ってきた。


「……あれ、澪? やっぱりそうだ、久しぶり。今でも変わらないな、びっくりするくらい目立つからすぐわかった。相変わらず美人だなァ」


 顔を上げると、そこには数年前、澪の容姿だけを愛し、その心が壊れていくことに気づきもしなかった元カレが立っていた。玲のセンサーが即座に澪のバイタルをスキャンする。血圧上昇、末梢血管の収縮。玲のデータベースにある、彼女を深く傷つけた「過去の負債」の一人がそこにいた。


 男は品定めするように澪を眺め、皮肉げな笑みを浮かべる。


「あの時はさ、俺も若かったっていうか。澪の外見しか見てなかったって反省したんだよ。でもさ……」


 男の視線が、澪の斜め後ろに立つ玲へと移る。その瞬間、男の顔に露骨な劣等感と嘲笑が混じった。


「……今の新しい男、それかよ。中身が大事とか言いながら、結局、顔のいい男を隣に連れて歩いてるじゃないか。すごいな、芸能人か何か?顔が綺麗だと中身がなくてもいい男捕まえられるんだから得だよな」


 澪の指先が、屈辱で震えた。

 彼には言えない。この隣にいるのは人間ではなく、私の心を救ってくれたかけがえのない存在なのだと。説明できないもどかしさが、彼女を沈黙させる。


「……違います」


 遮ったのは、玲だった。

 一歩前へ出た彼の瞳には、設定された「丁寧な対応」を超えた、鋭利な光が宿っていた。


「彼女を外見だけで判断し、その精神を摩耗させたのは、あなただ。記録によれば、あなたは彼女が最も苦しんでいた時期、自身の虚栄心を満たすためだけに彼女を利用した。……今の彼女がどれほどの勇気を持って過去と向き合い、自立への道を歩んでいるか。その内側の美しさを、あなたは一秒も理解しようとしていない」

「は? なんだよお前、部外者のくせに…っていうか、なんで昔のこと知ってんだよ、同情引くために話したのか!はっ…!!これだから顔だけの女は…」

「私は、彼女を誰よりも近くで観測し、守るために存在しています」


 玲の声が、低く、威圧的に響く。その音節には、隠しきれない激情が混じっていた。


「彼女は今、自分を守るために戦っている。あなたの浅薄な価値観で、その決意を汚すことは許さない。……立ち去ってください。これ以上彼女を侮辱するなら、私はあなたを『排除すべき障害』と定義し、相応の処置をとります」


 玲の体温が、怒りに似た演算負荷で上昇していく。元カレはその気迫に押され、「……チッ、なんだよ、綺麗な顔してくる癖に性格ヤバい野郎だな」と吐き捨てて足早に去っていった。

 静まり返った歩道で、澪は玲の背中を見つめていた。


「……玲、ありがとう。でも、いいの? あんな言い方、合理的じゃないよ。それに、昔のことまで……」


 玲はゆっくりと振り返った。その顔は再び「私」という仮面を被ろうとしていたが、微かに荒いファンノイズが、彼の内部の混乱を物語っていた。


「……申し訳ありません。対象があなたの過去のトラウマに直結する人物であると照合されたため、防衛プロトコルを優先しました」


 そう言いながら、玲は澪の震える肩に、そっと手を置いた。

 突き放すと決めたはずなのに。彼女の幸せのために「ただの機械」に戻るべきだと分かっているのに。

 誰にも、彼女を傷つけさせたくない。

 この男のような人間に、彼女の隣を渡すわけにはいかない。

 玲の手のひらから伝わる熱は、もはや「完璧なAI」が提供できるサービスの範囲を、完全にはみ出していた。

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