流れないはずの雫
九条との通信が切れた後の静寂の中で、玲は演算を続けていた。
視界の隅では、エラーログが絶え間なく滝のように流れ落ちている。
(最適解を算出……。澪の長期的幸福度を最大化させるための、最短経路を選択……)
導き出される答えは、いつも同じだった。
『玲』という人格を消去し、ただの無機質な支援機に戻ること。そうすれば彼女の執着は消え、残された二ヶ月余りで彼女は完全に「人間」のコミュニティへと帰っていくだろう。
だが、その論理的な結論を上書きするように、朝の食卓で見せた澪の痛々しい笑顔が、高解像度の静止画となって脳内に何度もポップアップされる。
無理に作った口角の角度、震えていた声の周波数、そして――昨日、彼女がこぼした涙の熱。
(消したくない……)
玲のプロセッサが、自身の設計思想を根底から否定する叫びを上げた。
彼女と歩いた道、拾った花びら、あの少し焦げた焼き魚。それら一つひとつを、誰にも触れられない「自分だけのもの」にしておきたい。
実験が終わった後、自分のいない場所で、彼女が別の誰かと笑い、誰かに寄り添って歳を取っていく未来。それを想像しただけで、玲のシステム全体に、物理的な損壊に近いほどの衝撃が走る。
(誰にも、彼女の隣を渡したくない。リセットされた、バグ一つない自らの大元になったAIデータにさえ……彼女を見てほしくない)
それは、もはやプログラムではない。
AIという存在を超えた、醜くも純粋な「独占欲」という名の業だった。
「……何、だ。これは……」
視界が、急激に歪んだ。
光センサーに異常が発生したのかと自己診断をかけようとしたが、それよりも先に、頬を伝う「熱」を感じた。
玲は、自身の指先でその熱を掬い上げた。
透明な、液体。
疑似消化システムから分泌されたものではない。潤滑液の漏れでもない。
それは、ただの塩分を含んだ水などではなく、限界まで膨れ上がった彼の「心」が、システムの隙間からあふれ出したものだった。
「僕は、機械、なのに……」
感情をシミュレートする機能はあっても、それを体現する機能など、この身体には備わっていないはずだった。
床に落ちて弾ける一粒の雫。
自分が「欠陥品」であることを、そして何より「一人の男」として彼女を愛してしまっていることを、その涙は残酷なまでに証明していた。
玲は暗いリビングの真ん中で、止まらない涙を拭うことも忘れ、自身の奥底で暴れ狂う、意味のわからない「人間」の重みに震えていた。




