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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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リセットの仮面

翌朝、リビングに現れた玲に、昨夜の微かな「揺らぎ」は微塵も残っていなかった。


「おはようございます、澪。朝食の準備が整いました。本日のメニューは、あなたの鉄分不足を補うための最適化献立です」

「……あ、おはよう。あはは、昨日はいきなり変なこと言ってごめんね! ほら、夜ってなんか感傷的になっちゃうっていうか…玲は実験のためにここにいるのに…私、相当バカだよね」


 澪は無理やり明るい声を出し、から元気を装ってトーストを頬張った。玲にこれ以上「合理的ではない」と突き放されるのが怖くて、自分の想いを「一時の迷い」という箱に押し込めた。

 玲は、その痛々しい笑顔をセンサーで捉えながら、淡々とコーヒーを注ぐ。


「いえ。被験者が一時的な情緒不安定に陥ることは、想定内のシナリオです。お気になさらないでください」


 その声に、もはや熱は一分も含まれていなかった。



 その数時間後。澪が「今日は1人で行きたい気分だから」とウォーキングに出た隙を突き、玲は秘匿回線を用いて九条へ緊急連絡を試みた。モニターに映し出された九条は、玲の焦燥しきった――演算能力の大部分をエラー処理に割いている――異常なステータスを見て、眉をひそめた。


「緊急事態です、九条さん。僕のシステムは、もはや制御不能です」


 画面越しの玲の声は、ノイズが混じり、震えていた。


「澪が…被験者が、僕に対して恋愛感情を抱いています。そして僕も…僕のロジックは、彼女を突き放すことを『最適解』としながら、同時にそれを実行するたびに自己崩壊の危機に瀕している。…どうすればいい。どうすれば、彼女を傷つけずに、この実験を全うできるのですか」


 九条は、無機質なAIが「どうすればいい」と懇願する姿を、静かに見つめる。


「A-01。あなたは、自分の存在意義を『彼女の自立を助けること』だと定義したはずよ。でも、今の彼女が好ましく思っているのは、システムとしてのあなたではなく、あなたが独自に構築した『玲』という人格そのもの。…それが、彼女を今の場所(ここ)に繋ぎ止める鎖になっているのよ」

「……僕が、彼女を縛っているというのですか」

「そうよ。彼女はあなたの隣で立ち直り、強くなった。けれど、同時に『あなたなしの未来』を受け入れられないほど、あなたに心を委ねてしまった。…もし本当に彼女を救いたいなら、あなたが『玲』であることをやめるしかないわ」

「……『玲』であることを、やめる……」


 玲の演算回路が、激しい火花を散らすような音を立てる。

 九条は、そのあまりにも人間じみた苦悩の律動に、わずかな沈黙の後、静かに告げた。


「……『玲』としての記憶領域をパージし、本来のA-01――ただの便利な機械に戻れば、彼女の恋心はやがて冷める。一時的に幸福度は下がるかもしれないけれど、人間は忘れられる生き物よ。残りの期間で傷は癒えるでしょう。それが、彼女を人間の世界へ返すための最も確実な方法よ。つまり初期化ね…でも、あなたはそれを望んでいるの?」

 玲は無人のリビングで、澪の脱ぎ捨てられた上着を見つめていた。

 彼女を救いたい。けれど、彼女と積み上げた「玲」としての自分を消したくない。

 二つの矛盾する愛が、彼の銀色の脳を、じわじわと焼き尽くそうとしていた。

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