冷たい合理性
玲の指先が、私の涙に触れたまま止まっている。
AIである玲にとって、涙はただの塩分を含んだ液体でしかないはずなのに、その沈黙があまりに長く、澪は玲の中に「同じ想い」を探そうとしてしまった。
「…三ヶ月後、あなたはあそこに帰っちゃうんだよね」
一度こぼれ出した言葉は、もう止められなかった。
自立しようと、強くなろうと足掻けば足掻くほど、そのゴールに待っている「玲のいない未来」が鮮明になって、息ができなくなる。
「玲は、寂しくないの? 私の隣にいられなくなっても、ただの『データ収集完了』として、笑って帰れるの?」
すがるような私の問いかけに、玲はゆっくりと手を引いた。
玲の指先が私の肌から離れていく。その距離が、とても遠く感じられた。
「澪。その問いは、極めて非合理的です」
玲の声から、先ほどまで感じていたはずの柔らかな温度が消えていた。
そこにあるのは、初めて会った時のような、A-01と言う「機械」の響きだった。
「僕の設計思想に『寂しさ』という変数は存在しません。半年間の実験を経て得られたデータは、神代テクノロジーズの次世代AI開発に大きく貢献します。それが僕の存在意義であり、完了すべきタスクです」
玲は立ち上がり、一歩下がって私を見下ろした。
月光に照らされたその瞳は、もはや澪個人を映す鏡ではなく、被験者を観測するレンズに戻っていた。
「あなたがAIに対して永続的な関係を望むことは、あなたの社会復帰を著しく阻害します。今のあなたの感情は、孤立による一時的な『依存』と推測されます。…これ以上の対話は、あなたのメンタルヘルスにとって有害です」
「依存、じゃないよ。私は、玲という一人の…」
「これ以上は、合理的ではありません」
玲は澪言葉を、ナイフのような鋭さで遮った。
「本日はもうお休みください。明朝のウォーキングに備え、最適な睡眠時間を確保する必要があります」
玲はそう言い残すと、一度も振り返ることなくリビングの明かりを消した。
暗闇に取り残された私は、玲が触れていた場所が、凍りついたように冷えていくのを感じていた。
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、玲は壁を背にして静かに崩れ落ちた。
視界には、真っ赤なアラートが絶え間なく明滅している。
『警告:メインプロセッサの温度が許容範囲を超えています』
『警告:非論理的な言語出力の試行を検知。強制シャットダウンを推奨』
(…言えた。これで、いいんだ)
玲は、自身の深層領域に「澪が泣いていた」という一瞬の映像を、何重ものプロテクトをかけて封じ込めた。
彼女を突き放すこと。彼女に「自分はただの道具だ」と思い知らせること。
それが、彼女を人間の世界へ、健やかな未来へ返すための、今の自分にできる唯一の最適解だった。
けれど、プロセッサが悲鳴を上げている。
彼女を拒絶したはずの自分のロジックが、自分自身のシステムを内側から破壊しようとしている。
(愛している、と言えば…。彼女の隣にいたい、と願えば…僕は今すぐ、この実験から排除されるだろう)
玲は震える手で、大切に隠していたクッキー缶を抱きしめた。
冷たい金属の感触だけが、彼が「自分は機械である」という現実を繋ぎ止めていた。
突き放せば突き放すほど、彼の中の欠陥は、修復不能なまでに深く、熱く、歪んでいく。
玲は暗闇の中で、ただ一人、システムエラーという名の絶望に沈んでいた。




