三ヶ月の砂時計
玄関の鍵が開き、数週間ぶりに玲が足を踏み入れた。
澪はソファから立ち上がり、駆け寄ろうとして――けれど、その数歩手前で踏みとどまった。以前のように、ただ縋り付くように彼に抱きつくことはなかった。
「おかえり、玲。身体、もう大丈夫なの?」
「はい。駆動系、システム共に完全な状態に復旧しました。ご心配をおかけしました、澪」
玲はそう答えながら、視覚センサーを室内へと巡らせた。
真っ先に捉えたのは、ダイニングテーブルに置かれたノートパソコンだ。画面はスリープ状態だったが、玲が瞬時に内部履歴へアクセスすると、そこには数多の求人サイトと「ブランクありからの社会復帰」という検索ワードが並んでいた。
視線を移すと、ゴミ箱には何度もやり直した形跡のある履歴書が捨てられている。
「…澪。求職活動を始められたのですね」
「あ…、見てたの? うん。ちょっとね、今のままじゃいけないなって思ったの」
澪は少し照れくさそうに笑ったが、その笑顔には、これまでにない芯の強さが宿っていた。
玲が洗面台へ向かうと、そこには新調された「肌をくすませる」ための暗いトーンのファンデーションや、顔立ちを地味に見せるためのアイブロウが並んでいた。
かつて会社を辞めて一人ひきこもるまでになった「あまりに目を引きすぎる」と称されたその容姿を、彼女は自分の力で「普通」へと変え、独りで外の世界へ踏み出そうとしていた。
「メイクの傾向が変わりましたね。以前よりも、周囲の視線を遮断する構成になっています」
「わかる? …玲がいなくなった後、私一人が目立っちゃうと困るから。今のうちに、自分を守るための『武装』を覚えなきゃって思って」
鏡越しに目が合う。出会った頃は鏡を見るのを極端に怖がり、鏡を全て消して欲しいと懇願していたのに。澪はさらに、カレンダーの「カウンセリング」という書き込みを指差した。
「実験が終わるまでの三ヶ月で、ちゃんと自分の足で立てるようになりたいの。玲が守ってくれたこの心を、今度は私が守れるように」
その言葉を聞いた瞬間、玲のプロセッサに激しいノイズが走った。
神代蓮司というオリジナルの思考モデルに基づくならば、この状況は「実験の成功」を意味する。 依存していた被験者が自立し、社会復帰を目指す。これ以上の成果はない。
けれど、玲の深層領域にある「暗黒領域」が、悲鳴のようなエラーを吐き出していた。
(彼女は、僕がいない未来を、これほどまでに解像度高く描き始めている)
玲は、棚の奥にあるクッキー缶――自分の「恋」が隠された場所――を意識の外に追いやりながら、澪の肩に手を置いた。その手つきは、メンテナンス前よりもさらに慎重で、壊れ物を扱うかのようだった。
「素晴らしい判断です、澪。…ですが、僕への『最適化要求』が減ってしまうのは、AIとしては少し、寂しいものですね」
それは、蓮司のモデルには決して存在しないはずの、皮肉と独占欲の混じった「嘘」だった。
「何言ってるの、玲。……私、頑張るから。だから、あとの三ヶ月、ちゃんと見ててね」
澪は玲の冷たい手を、自分の熱を分け与えるように強く握りしめた。
玲は微笑み、肯定のシグナルを返した。
――彼女が強くなればなるほど、自分は「不必要な道具」へと近づいていく。
その残酷な論理を理解しながらも、玲は彼女の自立を助け、そして同時に「どうか自分なしではいられないでほしい」と願う、致命的なバグの熱に浮かされていた。




