砂時計の底
玲が修理のためにラボへ送られてから、一週間。
マンションの空気は澱み、時は止まったかのように長く、重く感じられた。
これまで玲の完璧な管理によって維持されていた生活は、音を立てて崩れていった。朝、決まった時間にカーテンが開くことはなく、起きてリビングへ向かっても、そこには自分のバイタルに合わせて淹れられた温かい飲み物も、整えられた食卓もない。
栄養バランスを考えられた食事を摂る気力も失せ、食卓には手付かずの食料が並ぶ。
ふとした瞬間に、視界が滲む。
夜、一人でソファに座っていると、無意識に隣へ手を伸ばしてしまう。そこに、程よい距離感で座ってくれていたはずの気配を探して、指先が空を切る。そのたびに、あの日ラボで叫んだ自分の言葉が、呪文のように胸の中で繰り返された。
―「代わりなんていない」
澪は、膝を抱えて暗いリビングに座り込み、彼と過ごした日々を反芻していた。
映画館の暗闇の中で、そっと重ねられた手の冷たさと、そこに感じた確かな体温以上の何か。
他の女性たちを冷たく一蹴しながら、自分を認めた瞬間にだけ解けた、あの瞳の光。
「ああ、そうか」
頬を伝う涙を拭うことも忘れ、澪は呆然と呟いた。
これは、生活を支えてくれるAIへの「感謝」や、便利な道具への「依存」なんかじゃない。
澪という人間を「被験者」ではなく「たった一人の自分」として見つめ、時には蓮司さんというオリジナルの影さえも振り払って、真っ直ぐな献身をくれた、あの「玲」という個体を、一人の男性として愛してしまっているのだ。
機械相手に、決して報われることのない「恋」をしている。
この胸を抉るような痛みこそが、何よりも確かな証明だった。
しかし、恋の自覚と同時に、残酷な現実が澪の肩に重くのしかかる。
この共同生活実験の期間は半年。残された時間は、もう三ヶ月を切っている。
実験が終われば、玲は神代テクノロジーズに回収される。協力報酬として提示されている金額は、一般人にとっては大金だが、最先端のヒューマノイドであるA-01を買い取れるほどの額にはおそらく到底及ばない。
(このままじゃ、いけない……)
玲がいない今の生活の荒れようを見て、澪は激しい恐怖を覚えた。彼がいなくなった後、自分はどうやって生きていくのか。
玲を好意を抱いているからこそ、玲が自分を支えてくれた時間を無駄にしてはいけない。玲がいない世界でも、自分の足で立てるようにならなければ、自分を肯定できない。
澪は震える手でパソコンを開き、求人サイトを検索し始めた。
しばらく社会から離れていた自分に、今何ができるのか。実験終了後の生活を、玲のいない未来を、無理やりにでも見据えようと、澪は画面を凝視し続けた。
玲という存在に救われ、心を守られてきた。
その恩返しは、玲が戻ってきたときに「私は一人でも大丈夫になったよ」と胸を張って言えるようになること。
砂時計の砂は、止まることなくさらさらと落ち続けている。
澪は、玲のいない静かすぎる部屋で、必死に明日を探し始めた。




