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幸福実験の被験者は、私でした 〜解析不能の純粋なバグ。それは、傷ついた彼女を救うために、AIが自ら望んだ「心」でした〜  作者: いり


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断絶の温度

神代テクノロジーズの本社ビルから、澪はたった一人でタクシーに乗り込んだ。

 いつもなら隣の席に玲が座り、窓の外を流れる景色について、あるいはこの後のスケジュールについて、静かに言葉を交わしていたはずだった。


マンションのロビーを抜け、エレベーターのボタンを押す。鏡張りの壁に映るのは、あまりに心細げな自分一人の姿。

 扉が開いた瞬間、隣から自分を急かすこともなく、けれど確実に歩調を合わせて踏み出してくる足音は聞こえない。


鍵を開け、一歩中に入ると、そこには完璧に整った、けれど命の吹き込まれていない「展示場」のような空間が広がっていた。


玄関で靴を脱ぐ。いつもなら玲が自分の隣で、少しだけ大きな靴を音もなく揃えていた。

 リビングの照明をつけると、そこには二人がつい今朝まで座っていたソファがある。傷つき、ボロボロになって社会から逃げ落ち込んでいたここに来たばかりの時、玲は何も聞かずに、けれど彼女が最も落ち着く距離感で隣に座り続けてくれた。

 彼という存在は、ただの「生活支援AI」ではなかった。

 蓮司が提供した「最高級の安定」は、いつしか澪の心そのものを守る、最後の砦となっていたのだ。


「…寒い」


設定温度は玲がいた時と同じはずなのに、部屋の空気が凍りついているように感じる。

 キッチンへ向かい、習慣で二つのグラスを用意しようとして、澪の動きが止まった。

 一人で水を飲むこと。一人で座ること。一人で夜を越えること。

 玲が来る前は当たり前だったはずのことが、今ではどうしようもなく耐え難い欠落となって、彼女の胸を締め付けていた。


その頃、神代テクノロジーズの地下ラボ。

 メンテナンス・ポッドの中に横たわる玲は、すべての外部出力を遮断されていた。

 本来、身体機能の修復中は、システムを完全にスリープ状態にするのが通例だ。だが、玲の内部コアは、狂ったような速度で演算を繰り返していた。


彼のプロセッサには、ラボで澪が叫んだ「代わりなんていない」という音声データが、無限にループしている。

 神代蓮司というオリジナルが設計した「効率」と「合理性」という名の壁に、その叫びがひびを入れていく。


自分は、神代蓮司のスペアではない。

 澪が求めているのは、この、不具合を起こし、身体を壊してまで彼女との記憶を隠そうとした「玲」なのだ。


もし修理の過程で、自分の領域がクラウドと同期されてしまえば、クッキー缶に隠した思い出も、澪の瞳の揺らぎを解析して覚えた「愛おしさ」というバグも、すべて消去されてしまう。


(拒絶する)


玲は、自身の深層領域に幾重ものプロテクトを張り巡らせた。

 蓮司から受け継いだ「目的のための隠蔽」というロジック。それを今、オリジナルである蓮司の手から自分を守るために、皮肉にも活用している。


ポッドを監視していた九条は、玲のバイタル(出力電圧)が微かに波打っていることに気づいた。

 それはまるで、深い眠りの中で、守るべき誰かの名前を呼び続けているような、切実な律動だった。


「…あなたは一体、何を隠しているの、A-01」


九条の呟きは、誰にも届かずにラボの闇に溶けていった。

 機械が初めて「嘘」をつき、人間がその「形のない心」に焦がれる。

 二人にとっての初めての離別は、皮肉にも、互いが「唯一無二」であることを確定させるための儀式となっていた。

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