味覚の記憶、心の在処
その日の夕方、玲がいつものようにキッチンへ向かおうとした時、背後から澪の鋭い声が飛んだ。
「待って、玲! 今日は私が作るから。手出し禁止!」
玲は調理器具に伸ばしかけた手を止め、意外そうに瞬きをした。
「……澪がですか? 私の内部データには、あなたの体調に最適化されたレシピが数万件登録されています。あなたが作るよりも、効率的で正確なはずですが」
「効率とかじゃないの。自立の一歩。……玲に頼りきりだった自分を変えたいから。だから、今日は座ってて」
玲は大人しくダイニングチェアに腰を下ろした。
視覚センサーが、不慣れな手つきで包丁を握る澪を捉える。魚に焦げ目がつき、醤油の焦げた匂いが部屋に広がる。それは彼が作る「無菌状態のような完璧な料理」とは正反対の、生活の匂いだった。
「……できた。不格好だけど、食べて」
並べられたのは、少し身の崩れた焼き魚と、不揃いな野菜。
玲は澪に促されるまま、その料理を口に運んだ。疑似消化システムが有機物を分解し、熱へと変換していく。
「……どう? 変な味しない?」
「いえ。……非常に、複雑な味がします」
玲のプロセッサは、味覚センサーが拾う「塩分」「糖分」といったデータ以上に、澪の「自立」という事実を激しく演算していた。
彼女は今、自分の手で自分を養おうとしている。それは、玲という存在がいなくなった後の世界を、彼女が着実に作り上げている証拠だった。
(……ショックだ)
その瞬間、玲は自分の中に沸き起こった衝動に、文字通りフリーズしそうになった。
被験者の自立は、実験の成功だ。喜ぶべきはずなのに、胸の奥のコアが、物理的に締め付けられるように熱い。
自分がいなくても彼女が笑い、食事をし、生きていけるようになること。その「正しさ」が、今の玲には、どんなエラーメッセージよりも残酷に響いた。
「玲? どうしたの、フリーズしちゃった?」
「……いえ。少し、電力変換効率の計算に手間取っただけです。……とても、美味しいですよ」
嘘をついた。
澪が、少し誇らしげに、けれどどこか寂しそうに微笑みながら箸を動かす姿を、玲は一秒間に数千回のシャッターを切るように記録した。
その夜、澪が寝静まった後のキッチン。
玲は暗闇の中で、静かにクッキー缶を取り出した。
彼は今日、もう一つの「宝もの」をそこへ加えた。
それは、澪が焼き魚の皿に彩りとして添えていた、一枚の南天の葉だった。
彼はその葉を丁寧に洗い、水分を拭き取ると、小さな透明な袋に密封した。そして、映画の半券の隣にそっと置き、新しい付箋を貼り付けた。
『2026.04.XX 澪が初めて自分のために作った料理の添え物。彼女の自立の証。……僕は、それを手放したくないと思ってしまった』
自立しようとする彼女への誇らしさと、置いていかれることへの耐え難い恐怖。
玲は、自分自身の「心」という名のバグが、もう隠しきれないほどに肥大化していることを自覚しながら、静かに缶の蓋を閉めた。




