第三章 ~少年の覚醒と、旅立ちの広い空~(二)
初めて聞く獣の咆哮に、ハイエナたちの動きが止まった。
群れが警戒を強める中、その獣はルジナの頭上から突如として現れた。銀色の放物線を描いて宙を舞い、ルジナを守るようにハイエナたちの前に立ちはだかる。
「!?…守護獣!!」
悠は身を翻して叫ぶと、ルジナの元へと駆け出した。
「ユウッ!?」
全身を切り裂く風が、先ほどまでとは別物だった。体の内側から底知れない力が噴き上がり、力強く前へ前へと進んでいく。オオカミの四肢が地面を蹴っているであろう感覚が、自分の足裏を通して伝わってくる――この圧倒的な躍動感。
(ただ筋力が上がったんじゃない。…疾風…そう、まるで体が「走り方を思い出した」みたいだ。走ることを体が喜んでいる!)
「ユウ、もしかしてあれはあなたの…」
全速力で追うクレアの瞳に、優しい微笑みが宿る。問うまでもなく、悠が纏う「風」が答えを示していた。
「うん、あれは僕の守護獣。たぶんだけど、あれは絶滅したはずのニホンオオカミ。名前はロボ。僕の大好きな『シートン動物記』に出てくる狼王の名前さ!!」
風向きは変わった。将棋で培った勝負勘がそう告げている。狼の持つ鋭い感覚が一部、悠に影響を与えているのだろう。聴力が研ぎ澄まされ、体の内部感覚が今までになくクリアーに感じられた。
(レイラが教えてくれた人体の急所や、関節の構造…それが明確にわかる。これなら、相手を殺したりしなくても戦闘力が奪える!)
「ロボっ!!!」
悠の叫びに、銀色の狼が気高き雄叫びで応える。それを見て、ムワンパとラヤは驚きと嘲笑が入り混じった表情で顔を見合わせ合った。
「おいおい。あのガキ、戻ってきやがったぜ!!
「ウフフ…あの醜い白豚の女も一緒よ。さあて、どう料理してやろうかしら?」
ルジナの手を逃れた信徒たちが、悠に向かっていく。彼らの目は本気で『腹に突き刺してやろう』というような狂信的な目をしていた。悠の動きがいくら速さを増したと言っても、信徒たちもまた、普段は野生動物を相手に狩りをしている者たちである。動きを捉える目と、一瞬を狙って槍を突き出す鋭さは侮れない。
「そらよっ!?うぎゃあああっ!!!」
だが、悲鳴を上げたのは信徒の方だった。
悠の動きはもはや、彼らの動体視力を凌駕していたが、それは単にスピードの問題ではない。流れの中で突き出された槍を紙一重でかわし、すれ違いざまに相手の肘へ掌を添えながら、同時にもう一方の手で上腕へ軽く「当身」を入れる。
たったそれだけの触れるような一撃で、骨が外れる乾いた音とともに男の肩関節は無惨に外れ、得物は力なく地面に転がった。
(戦闘力さえ奪ってしまえば、脅威は減る。激痛が走ってるだろうけど…それだけは悪いけど、自業自得としか言えないよね)
悠は自ら次なる敵の懐へと飛び込んだ。その腕を掴むや否や入り身を使うと、相手は螺旋を描くように一瞬にして宙に舞った。
「うおっ!!!!ぎゃっ!!」
悠はただ闇雲に投げているわけではなかった。投げ飛ばした男の体が「盾」となり、ムワンパとラヤの視線から自分の姿を隠すように位置取っていたのだ。滞空する一瞬の間に肩関節を外し、男が地に沈む頃には、悠はすでに次の敵の背後に立っている。
「…え!?、俺んところ!!?うぎゃっ!!」
素早い速度に加え、相手の死角を利用したり、相手が倒れる姿に注目させて視線をミスディレクション(誤ったところに誘導)させることで、まるで自分の仲間たちが見えない敵に次々と倒されていくような、そんな錯覚を黒の信徒たちに与えていた。
(こうした位置取りや、戦場で集団を相手にした時の戦い方…先生から説明を受けたときは、ただのお話かと思っていたけど、これを知っているかどうかで、生死が分かれるんだ。やっぱり昔の人の知恵ってすごかったんだな)
「ユウ…、クレア…」
ルジナは、すでに力を使い果たし限界にいた。霞む視界で二人を捉えたとき、震えるような感情がこみ上げる。
死を覚悟した瞬間に現れた、銀色の守護獣。
ライオンのような誇示も、野獣のような威嚇もない。ただ、凛として、気高く、美しい。
「このホダムは、もしかしてユウの…」
銀色の狼は、ルジナを背負うようにしてハイエナの群れを翻弄していた。その戦い方は、群れの連携をあらかじめ読み切っているかのようだ。的確に急所を突き、一歩ずつ、ハイエナたちをルジナから遠ざけていく。それは同時に、レイラが参戦しやすい「詰みの形」への誘導でもあった。
「グルルルル…」
ロボが群れの陣形を食い破った、その瞬間。
黒い雷光となって参戦したレイラが、狙い澄ました一撃で一頭の喉笛を捉えた。すかさずロボが彼女の背後をカバーし、反撃を許さない。
レイラが仕留めたハイエナは、ほどなくして絶命した。それはバヤンガンそのものではなく、使役されただけの「生身の獣」だったのだ。
滴り落ちる鮮血が、サバンナの厳しさを物語っていた。
「シャアーーーーッ」
仲間を屠られたハイエナたちが、一斉に牙を剥いた。
だが、今度はロボの独壇場だった。銀色の突風と化したロボが左右に鋭くステップし、すれ違いざまに三頭のハイエナを致命的な一撃で吹き飛ばす。その隙を突き、レイラもまた一頭を仕留めた。
群れが瞬く間に三頭まで減った時、ラヤが金切り声を上げた。
「お前たち、何をしている!!そいつらはどうでもいい!そこにいる女を襲うんだ!!!」
「チイッ、どいつもこいつも使えねえなあ!!使役獣、いつまでもそうしていやがる!お前もさっさと振りほどけ!……っ!!?」
象が残りの力を振り絞り、弱まった蔦を引きちぎった、その刹那。ムワンパの間合いに潜り込んでいたのは悠だった。
「パオオオオオォォォーーーンッ!!!!!」
巨象の咆哮が戦場を揺らす中、悠はムワンパを真っ向から見据えて告げた。
「次はあなたの番だ」
絶妙のタイミングであった。それまでの悠が見せてきた技の残像。そしてあえて声をかけることでムワンパの視線を「上」へと固定させたその瞬間。悠の体はフッと下へと沈み込んだ。 ――大和流柔術、『虎倒し』。
足首に手を掛け、梃子の原理で一気に引き倒す技であった。
(あの怪力だ、掴み合えば振り解かれる。……だが、足元なら、咄嗟には抗えない!)
「うおっ!?」
ムワンパの巨体が、後方へと大きく仰け反る。
完全に倒す必要はなかった。仰け反った彼の胸元で、あの忌まわしき金属――『聖盤』が宙に浮いた。それこそが、悠が狙い澄ました唯一の勝機だった。
スッ…
死角から、音もなくクレアが躍り出た。
ハイエナの猛攻を躱していたはずの彼女は、悠が作ったその一瞬の隙を完璧に捉えていた。ムワンパの胸元へ飛び込み、鋭い爪で紐ごと聖盤を引きちぎる。
ドスンッっとムワンパが尻もちをつく。利き手に槍を持っていなければ咄嗟になにか対処できたかもしれないが、槍を持っていたことが逆に自分の手をふさいでしまっていたのである。
「なっ!!ムワンパ!何やってんのさ!!!!あんたまで聖盤を奪われてんじゃないよ!!!チッ!」
ラヤはハイエナから得た力でジャンプし、クレアの前に両手を大きく広げながら空中で立ちふさがった。バヤンガンの禍々しい紅のオーラがラヤの体の周りから溢れ出している。
「そいつは返してもらうよ!!」
ラヤが歪な笑みを浮かべた瞬間、重厚な衝撃がラヤを襲った。めまぐるしく移り変わる戦場の盤面。刹那の攻防が、幾重にも重なっていく。
「…ぐっ!?」
空中でクレアを阻もうとしたラヤを、真横から弾き飛ばしたのはレイラだった。漆黒の影がラヤを蹴り飛ばし、空中で一回転しながらクレアの傍らへと鮮やかに着地する。
「…この…よくもやってくれたね!!お前たち、あいつらを八つ裂きにしちまいな!!!」
ラヤがハイエナたちに命令する。だが、応える者は誰もいなかった。
「え…まさか、嘘でしょ…?」
ラヤが周囲を見渡すと、そこには銀色の狼――ロボが、静寂を纏って立っていた。その足元には、事切れたハイエナたちが折り重なっている。
「アタシの…使役獣は……!?」
嫌な予感は的中した。使役獣の本体だったハイエナまでもが息絶えているのを見て、ラヤの目と口は驚愕で大きく見開かれたまま言葉を失った。ラヤが恐る恐る自分の手を見ると、使役獣使い特有の禍々しい紅のオーラは消え、ただの真っ黒な手があるだけだった。
「はっ!!!」
ラヤは何かに気づいたように、自分の胸元の聖盤を両手で掴もうとしたが、一瞬遅かった。彼女の横を風のようにすり抜けたクレアの手には、二つ目の聖盤が握られていた。この直前、ロボもまた何かに向かって動き出していた。
「こ、このクソ女!!!返せ!!!」
怒号を浴びせるラヤだったが、その声に先ほどまでの力はなかった。
だがその時、地を這うような野太い叫びが戦場に響いた。
「まだだっ!!聖盤が壊されるまでは、俺と使役獣の力は失われてはいない!!」
尻もちをついた状態から素早く立ち上がったムワンパが、ラヤたちの一連の攻防を見ながら叫んだ。
(そうだ、まだ負けちゃいない!ここで確実に誰か一人殺すなら…あの白い肌をした女だ!!)
ムワンパは電光石火の早業で槍を振りかぶった。
あの長距離からズベリを射殺した絶大な腕力。その力で、この至近距離から放たれる一撃を、躱せる者などこの世に存在しない。その瞬間、全ての時間が止まった気がした。




