第三章 ~少年の覚醒と、旅立ちの広い空~(三)
「死ねっ!!」
(――ドクン…)
それは誰の心臓の鼓動であったか。
次の一瞬で、一体何ができるというのか。クレアが聖盤を砕くのが先か、ムワンパの槍が彼女を貫くのが先か。それは避けようのない残酷な運命に思えた。
「ぎゃああああああああっ!!!」
だが、絶叫を上げたのは、ムワンパだった。
悠は、すでに最後の一手を指していた。どんなに素早く動こうとも、槍を振りかぶって投げるまでには、必ず一瞬止まる瞬間がある。そこを狙いすましたようにロボが手首に噛み付いたのだ。ロボはそのまま体を高速で回転させながらムワンパの手首の筋を噛み切った。
(以心伝心…。会話ができるわけじゃない。けれど、不思議と意思が伝わる。これが守護獣…)
ドスッと音を立てて、ムワンパの手からこぼれ落ちた槍が地面に突き刺さった。
「この…ガキ…。さっきからそこで俺に何か仕掛ける振りをしていたのは、俺の注意をお前に引き付けておくためだったのか…!」
その行動もまたムワンパが悠を警戒する視線の動きを誘発し、ほんのコンマ数秒、槍を放つまでの時間を引き延ばす策であった。その一瞬は、ただの一瞬ではなかった。悠はその一瞬をより確実なものにするために、自らの命を盤上の駒として賭けていたのだ。だからこそ、ロボは悠の意図を読み取り、それによって生まれた意識の隙間に入り込むことができたのである。
「くっ!!!使役獣!!!こいつらを殺せ!!暴れまくってやれ!!!!」
「パオオオォォーーーーン……!!」
「キィィィィィン……ッ!!」
象のバヤンガンの鳴き声に、耳障りな高周波の音が重なった。
「パッキーーーーン!!!!」
聖盤が砕け散る音が響き渡った。巨象は前足を高く上げ、天を突く咆哮を上げたまま、陽炎のように空気に溶けて消えていった。
「お…俺の使役獣が……消えた…」
ムワンパの震える声だけが、虚しく戦場に取り残された。
「ムワンパ…アタシら囲まれちゃってるよ。どうしようかねえ」
ラヤが苦笑いを浮かべながら、ムワンパに声をかける。彼らの周りにはいつの間にか戻ってきた村人たちが取り囲んでいた。
金髪碧眼のクレアの傍らには、艶やかな漆黒の豹、レイラ。
その隣で、彼女を守るように立つ悠の足元には、月光のような銀の毛並みを揺らすロボが寄り添っている。
「…あなたたち『黒の信徒』が、今日、この村にしたことはサバンナ中に広まる」
クレアの透き通るような声に、村人たちはハッとしたような表情を浮かべた。
「黒の信徒が私に対してどのような考えを持っていようと、それはあなたたちだけのもの。誇り高きダナ族は、あなたたちがしたことをダナ族全体に対する侮辱であり宣戦布告と考えるでしょう」
「お…おうとも!!」
「そうだ、そうだ!!」
村人たちが声を上げた。
「黒の信徒よ。帰って他の者たちに伝えなさい。私はこの村を出る。もし、あなたたちがその歪んだ考えを糺す気がないというのなら…私だけを狙いなさい。その方があなた達にとっても都合が良いでしょう?」
「お、おい、クレア!!」
「何言ってるんだ!俺たちをそんな薄情な奴らだとおもっているのか!?」
「クレア、いつまでだってこの村にいてくれていいんだぞ!!」
「ルジナ、それでいいわね?」
クレアが振り向くと、ルジナがそこに立っていた。ルジナは深く頷くと、慈しむような目でクレアを見つめた。
「ずいぶん…長いこと共に暮らした気がしますが、とうとうこの日が来てしまったのですね」
「ええ。…黒の信徒たちよ。聞いた通りよ。そこにいる者たちを連れて、ここから立ち去りなさい。今すぐ!」
クレアの凛とした姿と声に、捕らえられ、あるいは悠に肩関節を外されて戦闘不能になっていた黒の信徒たちの表情が、もはや完全に負けを認めていた。
「あ~あ、わかった、わかった。今日のところはおとなしく引き下がってやるよ!」
「ホ~ント!ムカつくったら、ありゃしない。今度会ったらただじゃおかないからね!!さあ、アンタたち!帰るよ!!」
ムワンパとラヤは、捨て台詞を吐きながら仲間を引き連れて戻っていく。長い長い戦いがようやく終わったのだ。
だが、去りゆく二人の背中を見つめる悠の心は、重く沈んでいた。それは黒の信徒に追われる不安からではない。悠が思い出していたのは、ズベリがムワンパの槍で殺された場面であった。
(あの二人…たぶん、もう会えない気がする)
敵だからといって「殺されても構わない」と割り切ることなど、悠にはとてもできなかった。
(それだけじゃない。今回は聖盤を壊すことで倒すことが出来たけど…次からはきっと、黒の信徒たちも聖盤を簡単には奪えないように工夫してくるだろう。これからは戦いがもっと大変になる…)
「どうしたの?ユウ」
クレアが、悠の顔を覗き込んだ。
「うん…」
「…あの二人のこと、考えてるの?」
悠は、ハッとした表情でクレアを見つめた。
「…クレアも同じこと考えてたんだね」
「私たちを殺すために村を襲うような人たちだもの…仲間を殺すことも、なんとも思わないのかもしれないわね」
「ブラック至上主義…。だからこそ、失態を犯した者は仲間でもなんでもない…そんな風に考えてしまうんだろうな。失敗なんて誰にでもあるのに」
「悠は優しいのね。そんな風に考えることが出来るなんて」
「そんなことないよ…。僕は彼らに言ってあげることが出来なかったんだ。その危険があるって気づいていたのに」
俯く悠を、クレアが静かに、そして何の前触れもなく抱きしめた。
柔らかな温もりが、悠の冷え切った心を優しく包み込んでいく。
「え…?ク、クレア!?」
「ルジナが教えてくれた言葉にね、こんな言葉があるの。――サンコファ。『過去に置き忘れたものを、取りに戻ることは決して恥ではない』。ユウ、あなたが正しいと思うように、行動していいのよ」
悠の沈んでいた瞳に再び光が宿った。そうだ。自分の中に置き忘れてきた「後悔」を、そのままにしてはいけない。
「ありがとう、クレア!!僕、ちょっと行ってくる!ロボ、一緒に行こう!!」
「私は、ルジナと話をしているわ。いってらっしゃい、ユウ」
クレアが、花が綻ぶように笑った。初めて見る本当のクレアの笑顔だった。
「うん!!」
悠は村の外へ向かって駆け出した。
心は晴れやかで、身体を通り抜ける風が気持ち良かった。使役獣の力を失い、負傷者を抱えたムワンパたちの足取りは遅く、すぐに追いつくことができた。悠は一定の距離を保ち、彼らに向かって声を上げた。
「おーーいっ!ムワンパ、ラヤ!!!」
二人は一瞬、何事かというような表情で振り返った。だが、声の感じと手を振っている悠の姿に殺気はない。
むしろ友人に声をかけているかのような姿に、警戒感は解いたもののあきらかに戸惑いを感じている様子だった。
「思ったんだけど、もしかしたら、あなたたちも戻ったら危険かもしれない!…だから、くれぐれも気をつけて!!」
それだけ伝えると、悠は去っていく。
二人はあっけにとられたような表情をしながらも、お互いの顔を見合った時にはなぜか表情が和らいでいた。
「なに笑ってんのよ、ムワンパ!」
「ラヤ、おまえこそ」
「私は、笑ってなんかないよ!」
「どうだか…ハハハ」
「あんたこそ、今までで一番いい顔して笑ってるじゃない!」
「ラヤの方こそ、お前がそんな顔で笑えるなんて思ってなかったぜぇ?」
そんな二人の会話を聞いていた黒い信徒たちの、泥のように重かった足取りが、やや軽くなったように感じるのは、気のせいだろうか。




