第二章 ~迫りくる狂信者の影と、古の聖盤~(一)
ー2年後ー
少年の成長は早い。14歳になった悠は、だいぶ背も伸びて、顔つきも少年から少し大人へと近づいていた。
履いていた靴はとうにダメになって、今は裸足だ。だが彼はもう、それを苦にすることはない。それどころか、地面の湿り具合や土の硬さ、小枝の折れる感触から、周囲のあらゆる情報を読み取れるようになっていた。
(これから私は空腹を満たすために、あなたの子供(植物や動物)を少しだけいただきます。どうかお許しください)
目を閉じてルジナから教わった森の精霊への祈りの言葉を心の中で唱える。悠はこの「自然と共に生き、命を大切に敬う」感覚が好きだった。
「おっ、ここにいいのが生えていたぞ。このこごみに似てるやつ。美味しいんだよなあ」
悠は慣れた手つきで山菜を摘み取っていく。
「ふふっ、これだけあれば僕たちには十分だ。クレアも喜んでくれるかな」
そう言いながら立ち上がろうとした瞬間だった。黒い影が悠めがけて鋭く飛び掛かってきた。明らかに獲物をしとめようとする勢いだ。だが、悠はそれを見切っているかのように最小限の動きで躱した。慌てた様子もなく速く動いたという雰囲気すらない。ただ歩き出すかのように体をわずかにすらしただけの自然な動きだった。
「甘い、甘いよ、レイラ。手加減してくれなくて良いって言ってるのに。襲い掛かってくる気配が、愛情たっぷりなんだからなあ」
着地したレイラが笑顔の悠を下からにらみつけるような仕草をするが、それはまるで、女の子がわざとムッとした表情をしているかのようだ。レイラは「今度は本気」と言わんばかりに体を翻すと死角からすさまじい連続攻撃を切り出した。その連撃を、悠は軽々と躱していく。あえて急所をさらしたり、わざと死角を用意しながら相手を誘導する。クレアの天性的な美しい動きとは違うが、将棋が好きな悠らしい、どこか戦略的でスマートなスタイルだった。
「ふふっ、照れ隠しかい?でも、このくらい厳しいとありがたい…ね…とっ!!」
レイラの体当たりが悠の脇腹をかすめて、わずかに体勢が崩れた。レイラが明らかに誇らしげに喉を鳴らす。
「まいったよ、僕の負けだ。…待って。勝者のレイラにご褒美をあげるよ」
悠が目の端に捉えたのは、一羽の鳥であった。地面をつついて無心に虫を食んでいる。悠は無造作に鳥に向かって歩きだした。傍目にはただ何も考えずに捕えようとしているようにしか見えない。あまりにも愚かな行動に見えたが、鳥は飛び立つどころか、顔を上げることすらない。
(以前なら、ここで飛び掛かって捕まえようとして逃げられてしまうところだけど…我ながら上達したなあ)
気配を消す…それは、風に揺れる草の音、大地の呼吸、それらとの完全な調和。悠の歩く姿は、鳥にとってただの『風景の移動』にしか見えなかっただろう。
「…ほうら、捕まえた」
音もなく伸ばされた手が、鳥の体をふわりと包み込む。捕らえたというより、そこにある果実を摘み取るかのような、あまりに自然な動作。鳥は、何が起きたのか理解する間もなく、悠の掌の中で静かに動きを止めた。
「レイラ、君のごちそうだよ」
あっさりと鳥を捕まえた悠がレイラに見せると、レイラは「自分でも余裕で、捕れたのに」という表情をしている。だが、左右に振られた尻尾が、悠が自分のために捕まえてくれたという嬉しさを隠し切れていないようだ。
「クレアのための山菜も採れたし、レイラのごちそうも確保できた。さあ、そろそろ戻ろうか」
悠が、何の予備動作もなく走り出した。それも数歩足を出したときにはすでにトップスピードに乗っている。クレアのような超人的な速さやジャンプ力はなかったが、もし世界陸上大会の100m走に出たら、おそらく上位には余裕で食い込むだろうだけのスピードがあった。そして何より違うのは、その状態でマラソンのような距離を走ることもできるということだ。
「え、遅いって?…あはは、さすがに走るのは全然かなわないなあ」
レイラが何度も振り返り、心配そうにこちらを伺っている。彼女がかなりの手加減をしてくれているのは明白だった。もしクレアなら、レイラと肩を並べて風のように駆けるだろう。
(時々、クレアの体にオーラのようなものが光って見えるのは、ホダムの力が肉体に影響を与えているからなんだろうな。僕にも、ホダムがいたらその感覚がわかるかもしれないのに…)
「ガウッ」
レイラが軽く吠え、悠を促すように頭を振った。
「なんだい、レイラ?…あっ、シマウマの群れだ!一斉に移動してる…すごい迫力だなあ。教えてありがとう」
遠くではキリンたちが、高い枝の葉を悠然と食んでいる。この雄大な自然の中、様々な動物たちが思い思いに過ごしている姿。いつ見てもサバンナの風景には感動があった。
悠とクレアが住処としている谷がある岩山が見えてきた。その手前には、彼らを守るルジナの村がある。途中、バラナイト・エジプティアカの木の枝に片足で器用に立って、遠くを見据える男の姿があった。見張りのカマウだ。彼は悠の姿を見つけると、白い歯を見せて大きく手を振った。
「よう、ユウ!おっ、鳥を捕まえてきたのかい?」
「やあ、カマウ。ああ、これはレイラへのプレゼントなんだ」
悠の傍で同じようにカマウを見上げながら、レイラが「私のよ」というように得意げな様子を見せている。
「ユウは、レイラに甘いなあ。レイラなんて、放っておけば自分で勝手にとって食べるじゃないか」
「レイラは僕の狩りの師匠だからね。ちゃんと出来ているか見てもらっているのさ。そのお礼だよ」
「アハハ。いい弟子を持ったもんだな、レイラは。それよりユウ。お前まただいぶ肌の色が変わったな。まるでモリト族みたいだ。クレアの肌は白いままななのに、なんでお前だけがそうなるんだ?」
カマウが不思議がるのも無理はなかった。今の悠の肌は、陽に焼けていかにも健康的な薄茶色になっていたのだ。
「あはは、去年だって、いったん日に焼けてまた元に戻るの見てるだろ?僕たち日本人って種族は、肌を守るために自然にそうなるんだよ。それにクレアは僕とはルーツが違うからね」
「ふーん…。つくづく不思議な種族だな、その日本人ってのは」
「あはは、確かにそうかもしれないなあ。…あ、そうだ。これをやるよ」
悠はポケットから熟した黄色の実を取り出すと、カマウに向かって放り投げた。
「おっ、ブンゴじゃねえか!ありがとうな、ユウ!」
悠はカマウに手を振ると、再び村の方へ向かって走り出した。
(少しずつ村の外へ出してもらえるようにはなったけど、あれからますます、他の部族との深刻なトラブルが増えてきているらしいし…。ルジナの村だっていつ狙われるか…。今や、絶対の安心なんてどこにもないんだ)
いつもと変わらない村の様子に悠はホッとしながら、クレアが待つ谷へと向かった。ルジナたちが使う洞窟の道ではなく、あえて岩山を大きく回り込むようにして、険しい岩場を登っていく。
「ああ、やっぱりここからの景色は最高だなあ!」
登りきった岩山の頂から、悠は眼下の雄大なサバンナを眺めた。それは初めてルジナからこの世界の話を聞いた後に、クレアに連れてきてもらった、悠にとって大切な場所であった。
「さあ、戻ろうか。レイラ。今度こそクレアに見つからないように頑張らないとね。……よし、こちらは風下。匂いで悟られることもなし、と。まさかこちらから回り込んでくるとは思っていないだろうから、後ろからそっと近づいてみるよ」
悠は音を立てず、しなやかに崖を下り始めた。視線の先には、岩場で瞑想するクレアの後ろ姿がある。伸びた金色の髪が風になびき、彼女が少女から大人の女性へと移ろいゆく、神秘的な気配を纏っているのがわかった。
悠は、先ほど鳥を捕まえた時よりも、さらに深く気配を消した。それでいて、歩く姿は普段のままだ。だが、舞い散る落ち葉に人為的なものを感じる人がいないのと同じで、悠の姿はまるで風景の一部であるかのように、自然に溶け込んでいた。
「「ふふ…だいぶ上手になったじゃない」
岩の上で、目を閉じたままのクレアが、微動だにせずに言った。
「…ふう。鳥にだって気づかれなかったのに…やっぱり、かなわないなあ」
「そんなことないわ。なかなかだったわよ。…でも、一瞬だけ『気配を消そう』と強く意識したでしょう?それが漏れてきたわ」
図星だった。だが、それには彼なりの理由があった。途中、悠は岩場に差し込む夕日に照らされたクレアの姿に、一瞬、見とれてしまったのだ。16歳から18歳へと成長した彼女は、かつての天使のような可憐さを残しながら、女神のような神々しい美しさを湛え始めていた。尊敬や信頼の感情は読まれても構わない。だが、クレアに対する憧れの感情だけは、まだ悟られてはならなかった。
(『気配を消そう』という意識で上書きしなければ、この想いまでバレてしまいそうだ。僕が大人になるまで…今のこの関係を壊したくないんだ)
「…気づけばユウもずいぶん大きくなったわね。また背が伸びたみたい。ルジナにお願いして、服の丈を直してもらわないとね」
クレアは閉じていた目をゆっくりと開き、静かな微笑みを浮かべた。それは、見落としてしまいそうなほど小さな変化ではあったが、彼女の表情が以前よりもずっと豊かになったように感じられて、そのことが悠には嬉しかった。
「うん、そうだね。でも、さすがにボロボロになってきた感じだなあ。そのうち僕も、クレアみたいに服を作ることを考えないといけないかもね。でも前から気になってたんだけど…その、クレアが着ているそれって……レイラと同じヒョウの毛皮だよね?」
「…そうよ。これはレイラの伴侶のものなの。だから私にとってもレイラにとっても、これを身に着けることは私たちの意志であり誓いでもあるのよ。…でも、この話をするには、レイラにはまだ少し、辛いみたい」
「そう…だったんだね」
レイラは長いまつげを伏せ、物思いに沈むように佇んでいた。二人にとって…いや、一人と一匹の間に、どれほど深く、そして悲しい物語があったのか。けれどそれが今の彼女たちの「誓い」となり、生きる力になっていることだけは、悠にも痛いほど伝わってきた。
「すごいな。クレアも…レイラも。そうした経験や想いを抱えながら、この世界で生きているんだから」
「そうね。だから私は時々、10歳までの記憶……元の世界でのことは、ただの幻だったんじゃないかって、そんな風に思えてしまうの」
「クレア…」
「ユウはそうじゃないんでしょう?あなたにはお父さんを探すという大事な使命がある。いつか元の世界に帰るんだっていう、強い想いがある…」
「でもクレアにだって、元の世界に戻ればお父さんやお母さんが…」
「私ね、もうお父さんの顔も、お母さんの顔も思い出せないの。だから元の世界に戻ることが幸せなのか…それすらもわからないのよ」
クレアは微かに首を振って、寂しげに笑った。悠は初めて、クレアの心の声を聞いた気がした。それはとても重くて、そんな想いを抱えていたとは想像もしていなかった。
(考えてみれば、2年間も一緒にいたのに…僕はまだクレアのこと、何も知らなかったんだな。レイラのことも…)
――ピクッ。
レイラの耳が、鋭く動いた。
刹那、彼女とクレアの視線が、同時に同じ方向へと向けられた
「クレア?」
「ユウ、この気配、わかる?」
「うん、何となくだけど。空気が変わった気がした」
「黒の信徒…」
「黒の信徒だって…!!」
(以前、ルジナが言っていた…僕を襲ってきたやつらだ!!)
「…とうとう来たのね。ルジナの村の方に、禍々しい気配が迫ってるわ。」
クレアの瞳が、ひときわ深く透明な青を湛えている。その傍らで、レイラの体の周りには陽炎のような淡いオーラが立ち昇り、漆黒の毛並みをゆるやかに波打たせていた。
「ユウ、行ってみましょう!」




