第九章 ~風の調べと、旅人の背中~(四)
――サリが合流して二日目。
足裏に感じる土の質感が、少しずつ変わり始めていた。サバンナ特有のしっとりとした赤土から、乾いて硬い岩混じりの地面へ。背の高い草が徐々に低くなり、代わりに丈の短い、しかし根を深く張ったような頑丈な植物が増えてきた。ロボが岩から岩へと飛び移りながら色々と珍しそうに匂いを嗅いだりしている。
「なんだか空気が変わってきたね」
悠がそう呟くと、クレアが頷いた。
「標高が上がっているのよ。空気が少し薄く感じない?」
「そうだね。それにこの風……」
確かに、サバンナを駆ける時のような軽やかさとは微妙に違う感覚を身体に感じ始めていた。だがそれ以上に悠の注意を引いたのは、風だった。サバンナを吹き抜ける湿った風とは違う、乾いて清々しい、どこか遠くから運ばれてきたような風が、絶えず頬を撫でていく。
「ええ。これはアルトゥーラス山脈から降りてくる風ね」
サリが空を見上げながら言った。その目は、初めて見る景色に好奇心を隠しきれない様子だった。
遠くに見えていたアルトゥーラス山脈のシルエットが、昨日より確かに大きくなっている。上の部分は雪に覆われており、山肌のところどころに、いくつもの細い銀色の筋が走っているのが見えた。
「あれは……滝?綺麗……」
流れ落ちる水が光を反射してキラキラと輝いている。その神秘的な光景にクレアが感嘆の声を漏らすと、サリもまた深い感慨を覚えたように呟いた。
「雪解け水だわ。あの水がマジマクウまで繋がっているのね!」
悠の胸の中に筆舌にし難い感動が、静かに波紋のように広がっていく。
(本当にすごいなあ……この雄大なアルトゥーラス山脈とマジマクウが繋がっているなんて。…閉じられた世界の中でなんて綺麗に循環しているんだろう。まるで命の循環そのものだ……)
三人がしみじみとその素晴らしい景色に魅入っていると、どこからか風に乗って微かに笛の音色が聞こえた気がした。
「…笛の音?」
「ええ……素敵…。風に乗った音色が山肌に反響して……なんて素朴で美しいメロディなのかしら」
サリは目を閉じると、うっとりとした様子で聞き耳を立てている。
「きっと、ワイラ族の村の人がいるんだ。もう少し近づいてみよう」
悠が促すと、この笛の音の奏者を求めて三人は再び歩き出した。進むにしたがって徐々に笛の音色が大きくなり、それにあわせて地面の土は、はっきりと道の状態に変わっていく。笛の音の主は未だに見えないが、ところどころトウモロコシ畑のようなものがあり、明らかに人が住んでいる気配がした。
「…結構歩いてきたと思ったのに、まだ演奏している人が見当たらないや。ずいぶん遠くまで音が届くんだなあ」
「おじじから聞いた話だと、ワイラ族では笛のことも『ワイラ(風)』と呼んでいるらしいわ。風に乗ってどこまでも音が届くからなんですって。でも、おそらくもうすぐこの音の主が現れるわ」
サリの言葉は当たっていた。ほどなくして、岩の上に腰かけながらケーナと呼ばれる葦で作った縦笛を吹いている少年の姿が見えた。曲の構成を覚えたサリは、声で合わせるように歌いながらゆっくりと少年に近づいていく。それは驚くほど自然な入りだった。少年はケーナとサリの歌声が奏でる心地よい響きに自ら引き込まれるように、曲の世界に入り込んでいる。やがて二人の音楽は終わりを迎えたが、静かな空間には美しい余韻がいつまでも残っていた。
「こんにちは。素敵な音色ですね!」
完全に余韻が消えたのを見計らってサリが声をかけると、少年はびっくりしたように目を開けて声の主の方を見つめた。反射的に、警戒するような目つきでサリを睨みつけようとしたものの、その澄み切った声の明るさと屈託のない笑顔に、警戒心を解いて毒気を抜かれたような表情を見せた。
「あ…。あれはあんたの声だったのか。いつの間にか誰かが一緒に歌っていたってことに、今、気づいたよ」
独特の美しい声の響きに感動したような視線でサリを見つめた。それは少年にとって新鮮で初めての経験であった。少年の肌の色は赤銅色。典型的なルガ系の肌の色をしていた。年の頃は悠と同じくらいか少し年上といったところだろうか。
「その肌の色に、あの歌声。あんたモリト族だな。……その人の奏でる音を聞けば、いい奴か悪い奴かわかる。あの歌声は悪い心の奴には出せねえ…。おいらはワイラ族のカタリって言うんだ」
「カタリね。私はサリよ。こちらはユウとクレア」
カタリは二人の存在に初めて気づいたようにびっくりした表情になったかと思いきや、それが証人であることを知ってさらに驚愕の表情になった。
「あ…証人じゃないか!ホダムまで連れているのか。それに、そっちの奴は…もしかしてお前はシンの息子か!?」
カタリの言葉に、三人の表情がパッと明るくなった。
「シンを知ってるのね!?」
「父さんは、やっぱりワイラ族の村を訪れていたんだね!」
悠の反応に、カタリは納得したように頷いた。
「ああ。シンは言っていたよ。もしかしたら、後から息子が訪ねてくるかもしれないってな。本当に来たんだな。歓迎するよ、ユウ。あとそちらのクレアって人も」
クレアとは目で挨拶を交わしながら、握手を求めるように差し出されたカタリの手を、悠はしっかりと握り返した。
「よろしく、カタリ。それで、父さんは今もワイラ族の村に?」
「いや、今はルガ族の村だ。俺が道案内をして送り届けたんだから間違いないぜ。用事が済んだらまた村に顔を出すって言ってたけど、あの人のことだから音沙汰がないってことはまだ居座ってるんじゃないかな」
「カタリが父さんを!?そうなんだったんだね」
未だルガ族の村に残っているという確証を得たわけではないが、悠は、カタリが道案内をして送り届けたということを聞いたことで、ようやくその背中がすぐ近くに見えてきたという実感を得ていた。
「シンは、この村にもしばらく滞在してたんだぜ。長老もすっかりシンのことを気に入っちまってさあ。普段なら道案内を頼まれても簡単には引き受けたりしないんだけどな。……ユウたちは、シンのあとを追いかけてきたんだろ?ってことは、ルガ族の村へ行きたいんだな?」
「うん。もしよければ、僕たちの道案内もカタリに頼めるかな?」
「そうさなあ。二つ返事で受けてやりたいのは山々だけど、まずは長老へ確認を取るのが先だな。ユウ達なら心配ないと思うが、知っての通り、ルガ族はよそ者への警戒心が強いからな。俺たちワイラ族も、大きなくくりではルガ族の中の一部族で、ルガ族と共に『世界の果てを守る番人』でもあるんだ」
(『世界の果てを守る番人』……父さんがサリに「ルガ族ならこの世界の秘密を知っているかもしれない」と言っていたのは、おそらく彼らがそう名乗る理由があると思ったからに違いない。それは具体的な何かだろうか……それとも、何か口伝のようなものが存在するのだろうか……)
悠は思考を巡らせながら、別の角度から話を振ってみた。
「世界の果てというのは、このアルトゥーラス山脈のことだね。僕とサリはもう一つの世界の果てである南の大滝『マジマクウ』を見に行ったことがあるんだけど」
「おおっ!ユウはマジマクウを見たのか!?……同じ世界の果てでも、このアルトゥーラス山脈が『始まり』なら、マジマクウは『終わり』と言われているんだ。ここの雪解け水が川となって、やがてマジマクウですべて流れ落ちるようにな」
「ルガ族が『世界の果ての番人』と名乗っているのは、マジマクウも全部含めてのことなの?」
その質問に、カタリはあらためて悠の顔をまじまじと見直すようにしながら答えた。
「……やっぱり、ユウはシンの息子だなあ。シンと同じ質問をするんだな。ルガ族が『世界の果ての番人』を名乗るのは、世界の果てそのものを守っているという意味じゃない。証人と何らかの関係があると思うからこそ話すんだが、ルガ族が守っているのは不思議な『遺跡』なんだ」
「遺跡……この世界にもそんなものがあっただなんて初めて知ったよ。でも、カタリたちの長老に会う前に、そんなことまで僕たちに教えてくれて大丈夫なの?」
「ああ。長老が言ってたんだ。シンが『新たな風を連れてきた』ってな。長老は風から様々なものを読み取るんだ。それこそ時流の流れとかもね。だからもしシンの息子が村に来たら、どのみち全て伝えるつもりだったんだよ。『黒の信徒』たちが使役獣を呼び出したり操ったりする『古の聖盤』があるだろ?……あれも、元々は遺跡に残されていたものだったんだぜ」
悠は、カタリの言葉に目を見開くと同時に、一気にこの世界に対する様々な疑問が解けていくような予感がじわじわと湧き上がってくるのを感じていた。
「…あの聖盤が、遺跡に残されていたもの…」
「もしかしたら、私たちがこの世界に飛ばされてきた秘密もそこには残っているかもしれないわね」
悠とクレアが、視線を合わせながら頷きあう。
「さてと。そうとなれば、とりあえず長老のところへ行くとしようぜ。案内するよ。……それにしても、その銀色の動物と肩に乗っている鳥は
2体ともユウのホダムなんだろ?一体でさえ普通では現れないのに、ニ体も連れている奴なんて初めて見たぜ」
カタリが先頭に立って歩きだしながら、あらためて感嘆しながらロボとシオンを代わる代わる見つめた。
「これはニホンオオカミで、僕のいた世界でもとっくに絶滅したといわれている生き物なんだ。名前はロボ。そして、こちらの鳥の名前はシオンだよ」
「へえ。ルガ族の族長のホダムもコンドルっていう鳥なんだぜ。もっとも大きさはシオンの何倍も大きいけどな」
カタリは話し好きであるだけでなく、心を許した相手にはとことんオープンな性格らしかった。途中、すれ違った村人と挨拶を交わした時の三人の反応を敏感に察知するとこう言ったのである。
「へへ…三人ともさっき挨拶を交わした村人が、見張っている仲間って気づいたみたいだな。安心してくれ。誰ももう、ユウたちを警戒なんかしてねえよ」
その言葉に、ふっと悠の頬が緩んだ。どこまでオープンなんだろうと思いながらも、その警戒ぶりはまるで昔の忍者の里を思わせた。
「ねえ、カタリ。ユウのお父さん……シンってどんな感じの人なの?」
クレアが、カタリに問いかけた。クレアにしては珍しいことであったが、サリにしてもカタリにしても、悠の父親の話になるとなぜこんなにも心を許したような表情になるのかと俄然、興味が湧いてくるのを抑えられなかったのだ。カタリはクレアに尋ねられ、その時のことを思い出すようにしながら目を細めた。
「そうだなあ……。シンはとにかく、あの目がいいんだ。視点が独特というか、人を見るにしても景色を見るにしても、普通の人が見ていなかったり見逃すようなところをシンは見ているんだ。そして言うんだよ。『美しいね』『尊いね」ってね」
カタリの言葉にサリが、表情を輝かせて同意する。
「そうそう!ホントに気さくに色んな人に声をかけては『何をしているのか』とか『これは何か』と尋ねたりして……、でも不思議とみんな、シンと話した後は笑顔になっているの。私もずっとシンの傍で案内したことがあったんだけど、そんないろんなものを見ている目で笑いかけられると、何とも言えない安心するような気持になるの」
クレアは二人の会話を聞きながら、ふと悠の方に顔を向けた。そして悠と視線が合うと、何かを感じているかのように微笑んだ。きっと悠もそんな大人になっていくのだろう、クレアの目はそんな風に語っているようにも思えた。
「長老は言ってたよ。シンと話していて、久しぶりに自分たちのルーツを思い出したってね」
「おじじ……いえ、私たちの長老もよ。シンはこの世界の謎を解き明かそうとしながら、何気ない一つ一つの話にもじっくりと耳を傾けてくれる。だからこそ、自分がもう当の昔に忘れていたことすら、シンと話していると思い出すのだと」
(世界を飛び回るフォトグラファーか……。父さんって本当にすごいんだな…)
サリとカタリの言葉を通して、悠は初めて、世界を回り色んな写真を撮ってきた父親の『視点』と『感性』がいかに研ぎ澄まされたものであるかということを目の当たりにした気がした。




