第九章 ~風の調べと、旅人の背中~(二)
「クレア……今、なんて……」
悠の問いかけるような目に、クレアはもう一切の迷いがなくなったような表情で付け加えた。
「前にもこんな話をしたと思うけど、私はもう、両親の顔もよく覚えていないの。元の世界に戻ってもどんな風に生きて行けばいいのかもわからない…。だから、この世界に残ることに決めたわ。黒の信徒たちに命を狙われる危険はあるけど、この世界にはルジナもいるし、私自身も『予言の証人』として何かできたらって思うのよ」
言われてみれば、クレアの選択は論理的にも感情的にも当然の帰結だったかもしれない。悠は、クレアの視線をまっすぐに受け止めながら、先ほどのサリの表情と言葉が重なった。「シンによろしくね。いつでも村へ遊びに来てって伝えておいて」――その言葉は、もしかしたら暗に自分に対して向けられたお別れの言葉ではなかったか?
それは薄情なのではない。むしろ、真剣さの裏返しであった。悠に対する限りなく真摯な気持ちが、彼女たちにそれを直視する勇気と覚悟を与えていたのである。つい先ほどクレアに何を考えていたのかと問われて、その時考えていたことからあえて話を逸らした自身とはあまりに対照的であった。悠にはそんな彼女たちが輝いて思えた。
(二人とも、なんて素敵な女性なんだろう…)
悠は己の心の未熟さを恥じ入る想いだったが、誰だって心は揺れ動き、多かれ少なかれ迷いながら一歩一歩進んで行くことには変わりない。その時その時を一生懸命に生きることこそが若者の特権なのだ。
「そうなんだね。クレアの選ぶ道もそれはそれで大変だとは思うけど、黒の信徒達との件は僕も何とかしたいと思う気持ちは一緒だし、元の世界に戻るにしてもその件が解決してから戻れたらと思っているよ」
この世界に残るというクレアに対して、元の世界へ戻るということをはっきり口にするのは勇気のいることであったが、それが今の悠に出せる精いっぱい気持ちを奮い立たせて出した、一つの結果であった。
「サリには……なんて伝えたの?」
「…それは……。ただ、クレアとルガ族の村へ行くとだけ。でも、サリもなんとなく別れを察しているようだったよ。もちろん、父さんと再会したりルガ族の村へ行くことで元の世界に戻れる保証なんて何一つないんだけどね」
明るい口調とは裏腹に、何か…皆の中に不思議と、一様に『元の世界へ戻る』という予感が漂っていた。こうした時というのは往々にしてその予感が的中してしまうことがあるものだ。もちろん、果たしてそれが本当になるかどうかは誰にもわからないのだが。
「そう……」
クレアもそれ以上は何も言わなかった。二人は明日の出発に備えて横になるが、同じ部屋の中でも自然とそれぞれ離れた場所で身を横たえている状況に、悠はふとサリと隣り合って肌を触れ合わせながら一緒に眠った時のことを思い出していた。
(ふふっ、不思議だな…。サリと違ってクレアとはこうして眠るのが当たり前だけど、そこにいてくれる安心感は変わらない……)
今の悠に出来ること。それはこの一瞬一瞬を大切にし、心に刻み込むことだけだった。悠は意識の広がりとともに、すべてのものに感謝の気持ちが湧いてくるのを感じながら深い眠りについた。
――翌朝。
爽やかな空気の中に混じって穏やかなゴンドランの音が森に響き渡る中、アディリの傍らにルジナとサリ、そして村の者たちが大勢悠とクレアを見送るために村の広場へ集まっていた。
「クレア、ユウ。道中、くれぐれも気を付けてね」
「それではの。ユウ、うまくシンに会えると良いの。二人の旅路に精霊のご加護を……」
アディリの声に合わせて、村人たちが胸の前で手を合わせる。特にサリはひときわ熱心に祈っている様子だった。悠とサリの間に言葉はない……というより、言葉にしきれない感情をお互いの視線に込めていた。目と目で見つめあうだけで、相手の心が何もかも伝わってくるようだった。サリの微笑みと共に、悠は皆に向かって振り返った。
「それじゃあ、いってきます!」
悠が元気よく挨拶し、クレアと共に村の出口の方へ歩き出す。レイラが、ロボが、後に続いた。シオンはいつもの特等席である悠の肩にちょこんと乗って村の様子を記憶に焼き付けようとしているようだった。それはあの名もなき男のことを、懐かしんでいるようにも見えた。悠もまた一瞬、その男のことを頭の中に思い浮かべた。それは、シオンの心が流れ込んできたからだろうか。
(サリ……)
その姿が遠く小さくなっても、悠にはサリがすぐ傍にいるようなそんな錯覚を覚えていた。
(行ってくるよ)
悠は、心の中でサリに話しかける。先ほどのサリの微笑む顔が浮かび、それにつられるように悠の目と口元も微かな微笑みを浮かべていた。
「二人とも、いい表情してたわね」
モリト族の村を出て、ワイラ族の村へ歩みだしたときにクレアが遠く前を見つめながら独り言のように呟いた。
「え?」
「ユウとサリ。……私にはわかる。二人はいつも一緒よ。これからもずっとね」
悠は、一瞬呆然としたような表情でクレアを見つめた。まさかクレアがそんなことを言うとは思いもしなかったのだ。そして、クレアが続けた言葉は、さらなる驚きと歓びを悠にもたらした。
「もちろん、私ともね。そうでしょう、ユウ?」
……それは何かの予感だったのだろうか。それとも、自然と出てきた言葉だったのだろうか。クレアが悠とサリのキスシーンを見てモリト族の村を飛び出し、悠がそんな彼女を探しだしてからというもの、まるでクレアの中で何か大きな変化が起きたようであった。
「うん、もちろんだよ。クレア!僕たちもずっと一緒さ!!」
悠は思わず、クレアに手を差し出した。
「なあに?どうしたの?」
クレアが差し出された悠の手に戸惑ったように尋ねる。
「クレア、手を繋ぎながら歩こうよ!」
18歳のクレアが、恐る恐るというように手を伸ばしながら悠の手を取る。それは、悠とクレアの関係性において、初めてお互いが意識して肌を触れ合わせた瞬間であった。
気づけば15歳の誕生日を過ぎていた悠の背丈は、クレアにほぼ並ぼうとしていた。この異世界での経験は、現代社会における15歳の少年よりも遥かに大人びた雰囲気を身につけさせている。最初はただ触れ合わせているだけだったクレアの掌が、やがてぎゅっと悠の掌を握りしめてきた。
「あはっ。こんな風に手を繋ぐの、初めてだね。クレア!」
悠が屈託のない笑顔を浮かべながら、嬉しそうに手を前後に動かす。そんな無邪気な悠の様子に、クレアもつられるように笑顔を浮かべていた。まるで少女のようなその微笑みに、サバンナの風景までもが呼応している様だった。大地を踏みしめる足裏からは豊かさが。どこまでも広がる青い空は、この尊い一瞬を温かく見守るように天を支え、爽やかな風が草や小さな花を揺らしながら二人の周りを優しく撫でていく。そんな二人を、少し後ろからレイラとロボが並んで歩きながら静かに見つめていた。
「風が気持ちいいわね」
サバンナを吹き抜ける風に、クレアの輝くような金髪が微かになびいた。
「うん」
手を繋ぎながらも開いていた二人の間の距離は、いつの間にか肩が触れ合いそうになるまでに近づいていた。そしてそっと二人の肩が触れ合った瞬間、二人は立ち止まって見つめあった。ゆっくりとお互いの顔が近づいていき、二人の唇が重なる。その時のお互いの感情を、どう表現すればよいのだろう?あえて例えるならば「お互いに好きなもの同士が、別れを目前に控えた時の心境」に近いのかもしれない。
悠とクレアが手を繋いで一歩一歩大地を踏みしめながら歩くことは、心の中にこの一瞬一瞬を刻み込もうという行為に他ならなかった。
「ユウ、ほら。そこにマルーラの実がなっているわ」
ただの少女のように無邪気な微笑みを見せながらクレアが指差した先には、丸くて黄色みがかった小さな実が枝もたわわになっていた。象をはじめ、サバンナの動物たちが好んで食べるというその実に悠が顔を近づけると、甘酸っぱくてジューシーな果汁が特徴のマルーラの実は、すっかり熟して発酵したような芳醇な香りをほんのりと放っていた。
「すごい、いい香りだ!これをソースにして肉と一緒に食べたらおいしいだろうなあ」
「まあ、ユウったら食いしん坊ね。……ふふっ、でもその通りよ。マルーラの実を集めて、今日の晩御飯はそれを作ってあげましょうか?」
「やった!……でも、クレアはずっとあの谷に籠っていたと思ってたのに、色んなことを知っているんだね」
「レイラのおかげよ。思えば、レイラがこういう楽しみを教えてくれたから、私も何とか生き延びられることが出来たのだと思うわ」
こうした何気ない会話を、どれほど大切な思いで交わしたことだろう。その時の表情を、いかに瞼に焼き付けようとしただろう。悠とクレアはマルーラの実を集めながら目と目で微笑みあった。
モリト族の村から離れ、再び雄大なサバンナの風景の中へと戻ってきた二人の頭上には、いつしか満天の星空が広がっていた。美味しかった食事の余韻が残るバオバブの木の下で、寄り添うようにうずくまった二人の目に焚火の炎が揺らめいている。
「……クレア。火は僕が見てるから、先に休んで」
「ええ。ありがとう、ユウ」
悠が火に枝をくべながら、クレアに微笑みかけたその時だった。クレアがふと何かに気づいたように耳をそばだてた。
「この微かな音……」
レイラとロボはいつの間にか立ち上がって、遠くに視線を送っている。
「ああ…そうだよ」
悠の表情が、ほころんだ。
「…サリ」
悠とクレアが同時にその名前を口にすると、遠くにリンバとその背中に乗ったサリのシルエットが見えた。
「ユウ~ッ!クレア~ッ!!!」
その人影が叫んでいる。悠とクレアは一緒に立ち上がると、その影が近づくのを笑顔で見つめた。
「ユウッ!クレアッ!!」
リンバがすぐ近くに到達するや否や、サリはリンバの背中からジャンプして、両腕を広げながら悠とクレアに抱きつくように飛び込んでいく。
「サリッ!」
悠とクレア、そしてサリの三人で抱き合いながら再会を喜び合う。今こうして、再び三人が揃ったのだった。




