第九章 ~風の調べと、旅人の背中~(一)
アディリは、引き込まれるようにその山々の姿に見入っている悠に、一瞬、若き日の自分の姿が重なった。当時、自分が感じた気持ちを悠もまた感じているのだろう、そんな想いをいだきながらアディリはゆっくりと悠の隣に歩み寄った。
「……南の世界の果てをマジマクウというように、あの天高くそびえる山々のことをアルトゥーラス山脈と呼んでおる。シンが言っておったぞ。ユウが元居た世界には『世界の果て』というものは存在しないそうじゃな」
(父さん、アディリとそんな話までしてたんだ……)
世界の果てが存在する限られたこの世界と、地球が丸い惑星であるというだけでなくその周りに存在する宇宙は今でも膨張し続けている無限とも言える元の世界。この二つの世界をどう説明したものかと思いながら、悠は頷いた。
「ええ。…その、説明すると長くなるのですが……」
「ふぉふぉふぉ、好い好い。シンから聞いておるぞ。ユウの住んでいたところは、『地球』という丸い大地の上だそうだな。なんでも、その『地球』とやらは、あまりに大きいので人間には大地が丸いということが感じられないのだとか」
アディリが悠の父・新島真一郎から教わったことを悠の前で披露すると、横で聞いていたルジナが感嘆したように目を丸くした。
「まあ!そんなことが本当にあるのですか?……あまりに途方もない話で、にわかには想像できないわ」
「それだけではないぞ、ルジナ。太陽は、本当は『地球』よりも何倍も大きくて、夜、空に瞬いている星は、その太陽よりももっと大きいのだそうじゃ。全く持って不思議なことよ。……じゃが、儂はシンがでたらめを言っている様には思えなんだ。きっとシンや悠の世界では、それが真実なのじゃろう」
ルジナは、自分たちが知っている世界とのあまりの違いに、アディリの話をどう受け止めて良いのか戸惑っているようですらあった。そんな二人の会話を聞きながら、悠はなにか心の中で深く腑に落ちるものがあった。
「もし、宇宙が膨張し続けているというのなら、宇宙の外側には何があるのだろう――?」その事実を知った時に誰もが感じるであろう疑問を、悠も感じたことがある。自分だって元の世界のことを知っているようでいて、実はわからないことなど山ほどあるのだ。科学で色んなことが解き明かされるその先に、未知のものは厳然として存在し続け、自分たちもまた未知のものは未知のままに日常を生きている。
(マジマクウにアルトゥーラス山脈…ここでは世界には果てがあることこそ真実……。そう、どちらも真実なんだ…僕たちにできることなんて、ただそれを受け入れることだけなのかもしれない…)
アディリは改めて悠の方へ向き直ると、いよいよ本題に入った。
「ユウよ。ルガ族の村へ行くには、案内人が必要じゃ。ルガ族というはよそ者に対する警戒心が強くてな。何より、山の周りには『迷いの霧』と呼ばれている霧が出る場所がある。その霧に飲まれてしまったら二度と帰ってこれなくなってしまうんじゃ。あのアルトゥーラス山脈の麓にはワイラ族という少数民族がおる。彼らを頼ると良かろう。シンもまずはワイラ族の村に向かったはずじゃ」
「迷いの霧に、ワイラ族……」
「そう。ワイラというのも本来彼らの言葉で「風」という意味なのだそうじゃ。安全にルガ族の村へたどり着き、村人たちに受け入れてもらうためには、風の民の協力を得ることがその道標なのじゃよ」
アクセサリーの音をじゃらっと鳴らしながらルジナもまた悠に近づくと、補足するように付け加える。
「ルガ族がよそ者に対して警戒心が強いのは、彼らが代々古い遺跡を守ってきた部族でもあるからなの。『黒の信徒』の幹部が身につけている『古の聖盤』……あれも、元は遺跡にあったものを『黒の信徒』たちの先祖が盗んだものだとも言われているわ」
「古の聖盤が、古い遺跡から盗み出されたもの……。ルガ族がよそ者に警戒心が強いのは、そういう理由も考えられるわけだね」
(……父さんのことだ。世界の果てに興味を持っただけでなく、その遺跡に何かこの世界の秘密が隠されていると考えたに違いない……)
悠は情報を頭の中で整理しながら、父親が向かったであろうアルトゥーラス山脈を見つめた。
「のう、ユウよ。ユウたちがいた世界のことは儂らには想像もつかんが、シンの話を聞いて一つだけ思ったことがある。この村のさらに東には砂漠があっての。その先は常に砂嵐が立ち込めており、ルジナたちの住むダナ族たちの村をさらに西に行くとやがて霧の海に行きつくのじゃが、言ってみれば、それらはそれぞれ西の果てと東の果てということになるのじゃろう。儂らもシンの話を聞くまでは、そのことに対して何も思っておらなんだったがな」
閉ざされた世界――アディリの言葉にそんな考えが頭をよぎりながらも、マジマクウの壮大な景色や、遠く目の前に聳え立つアルトゥーラス山脈、そして雄大なサバンナの風景を思い浮かべると、自分が元の世界にいたときに見ていた街の風景の方こそ、いかに狭くて小さな世界だったかを思わずにはいられなかった。
(父さんが世界中の色々なところへ行って、地球上の素晴らしい風景を写真に収めようとする意味があらためてわかった気がする。そうした景色に出会うたび、どんどん世界の見え方が変わっていくんだ。……だからだろうか。ルジナやアディリたちが大地の精霊へ感謝を込めたり、命が廻るという考え方が美しく素晴らしいものに感じるのは…)
悠は今、『人の営みにとって本当に大切なのは何か?』ということが、ぼんやりと心をかすめた気がした。それは、誰かが正しいと判断を下すようなものではない。自分の魂がただ素直に感じる、それだけだ。
「そうなんだね。おかげでこの世界のことが良く分かったよ、アディリ。ありがとう。とりあえず、僕とクレアでワイラ族の村へ行ってみることにするよ」
悠はクレアの方に視線を送ると、クレアが小さく頷く。二人がルガ族の元へ向かうのは、悠の父親のことだけではない。そうすることが『予言の証人』として、避けられぬ運命の導きのようにも感じられていた。
「そうね。ワイラ族の者と会って、ルガ族の村へ行けばユウのお父さんもきっとそこにいるでしょうし、黒の信徒のことも、元の世界へ帰ることも……道が開けるに違いないわ」
「おお、そうとも!……今まで儂らは暗黙の了解でお互いの不可侵を続けてきたが、黒の信徒たちがあちらこちらでその誤った教義で争いを招いている昨今、儂らはもう少しお互いに歩み寄るときかもしれぬ。そのきっかけを作るのが、本来の意味でのおぬしたち『予言の証人』というわけじゃ。もちろん、儂らも二人をしっかり支えるがな」
ルジナもアディリも、悠とクレアを温かな目で見つめている。悠の心の中に、ルジナの村を出た時に交わした会話が甦った。
――「クレア、ユウ……。あなたたちは、どこへ向かうつもりなのですか?」
そう尋ねたルジナに対して、クレアと悠はこう答えたのだった。
――「ユウと話していたの。まずは広い世界を回り、ユウのお父さんを探す。……そして、私たちの存在を正しく知ってもらう旅にするわ」
――「ルジナが目指す『平和な世界』に、少しでも近づけるようにね。……それから、いつか元の世界に戻る方法も、二人で探してみるつもりだよ。本当にそんな方法があるかはわからないけどね」
そして悠とクレアは、こうしてルジナやアディリと共に世界の果てを眺めている。父の背中も、もう少しのところで見えるところまで来ている。朝の陽光を浴びて、薄く紫がかった青から、鮮やかな青と万年雪の白とのコントラストに輝く山肌へと変わったアルトゥーラス山脈がまるで自分を呼んでいるように悠には思えた。
丘を下りながら村へと戻る頃には、太陽はちょうど真上へきていた。厳かなゴンドランの音が森全体に静かに響きわたっている。村人たちがそれぞれ生活の営みを送っている姿は生き生きとして、何気ない作業の端々に感謝の気持ちが溢れている。
その尊い光景を目に焼き付けるように眺めながら、悠は静かに歩いた。サリの様子を見に行きがてら、明日、ルガ族の村へ出発することだけを伝えた。サリはだいぶ回復した様子で、笑顔を見せながら悠に言った。
「そうなのね…。シンによろしくね。いつでも村へ遊びに来てって伝えておいて」
「うん、きっと伝えておくよ」
そう言って見つめ合う二人の表情には、どこか寂しさの影があった。
やがて夜が訪れると、モリト族の森は昼間とは全く異なる表情を見せた。虫の声が重なり合い、木々の重なり合った葉の隙間から差し込む月明かりが地面に淡い模様を描いている。どこかで夜行性の鳥が一声鳴いた。
(しばらく……サリとはお別れだな)
出発を明日に控え――部屋のぽっかりと穴が開いただけの窓から夜空をぼんやりと見上げながら、悠は自分のその考えに昼間よりもいっそう深い寂しさを覚えていた。
(……父さんと再会して、元の世界に戻れる方法が見つかったなんてことになったら……クレアはまだわからないけど、サリとは確実にお別れになる。…もしかしたら、これが永遠のお別れになるかもしれないんだ……)
それは、住んでる世界が違う14歳の少年と少女の現実であった。
(サリだけじゃない。元の世界に戻るにしろ戻らないにしろ、いずれはクレアとだって別れが待っている……いずれ別れるなら、どうしてこんな出会いがあるのだろう?)
ふっと浮かんだ考えに、少年が大人になるときに誰もが味わうであろう心の痛みと苦しみが悠を襲った。人はまた新たな出会いや過ぎ去っていく時間と共に、忘れるか、遠い想い出となっていくのだろう。だが、悠にはこの豊かな感情が忘れられるとも、遠い想い出になってしまうことも、想像するには若すぎた。
「ユウ。何を考えているの?」
振り向くと、クレアが優しさとどこか不思議な光を湛えた目で悠を見つめていた。
「ん……。いや、父さんと再会したら、本当に元の世界へ戻る方法がみつかるのかなってね」
悠は敢て、たった今まで考えていたことから話を逸らした。表情は冷静を装っていたものの、心の中はかなり動揺していた。
「……そうね。もし本当に元の世界へ戻る方法が見つかったら、私やサリとはお別れね」
悠は思わず目を大きく見開いたが、クレアの表情はすべてを悟っているかのように静かで、それでいて、どこまでも優しい光に満ちていた。




