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異世界のサバンナはロマンとロマンスに溢れている!  作者: 乃尉 未央
~霊猿を連れた少女と黒豹の乙女~
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第一章 ~霊猿を連れた少女と黒豹の乙女~(三)

姿を現したのは、五十代から六十代だろうかと思われる一人の女性だった。漆黒の肌を見て悠は一瞬体を強張らせたが、昨日の男たちとは違い、そこに凶悪さは微塵もない。色鮮やかなビーズの装飾をまとい、清潔な白い布を纏ったその姿には、深い慈愛と気品が宿っていた。


彼女――ルジナは、悠の姿を認めると、アーモンド型の大きな目を驚きに見開いた。


「おお……なんと。また一人、証人あかしびとが!?」


「ルジナ。この子の名前はユウよ。あなたの部族に伝わる言い伝えを教えてあげてほしいの。私たちが、この地でどういう存在なのかを」


クレアの言葉に、ルジナは少しの間、沈黙して答えた。


「それは……厳しいことをお伝えしなければなりませんね」


ルジナの重い言葉に、悠の脳裏にあの襲ってきた男たちの言葉が蘇った。


「ユウ、どうかしましたか?」


「あの…思い出したんです。ルジナさんと同じ黒い肌をした男の人たちが、他の奴らはその……家畜だって言ったり、僕を生贄にするんだって…」


悠の言葉を聞いたルジナは悲しげに目を伏せ、深く、重いため息を漏らした。


「…すでに、大変な思いをされていたのですね。見れば、あちこち傷だらけね。まずは手当と、お水を差し上げましょう。唇が今にも裂けてしまいそうですからね。お話はそれからでもよろしいですね、クレア?」


「ええ。その間、私は少しレイラと戯れているわ。さっきの運動では物足りないみたい。お願いね、ルジナ」


「承りましたよ、クレア。…ユウ、こちらへ」


ルジナに手を引かれ、悠は洞窟の中へと足を踏み入れた。

彼女が歩くたび、幾重にも重なったビーズの首飾りや腕輪が、カラカラと小気味よい乾いた音を立てる。そこからは、サバンナのハーブを燻したような、心を落ち着かせる香りが漂っていた。


外の刺すような日差しが嘘のように、洞窟の中は涼しく、清らかな空気に満ちていた。奥には、岩の隙間から湧き出す澄んだ泉が静かに佇んでいる。

 ルジナは木をくり抜いた器でなみなみと水を汲み上げると、悠に差し出した。


「さあ、どうぞおあがりなさい」


悠は突然喉の渇きを思い出したかのように、目の前の水を一気に飲み干した。


(ああ…水ってこんなに美味しかったのか…!?)


 ただの冷たい水のはずなのに、全身の細胞が歓喜の声を上げるほどに甘い。清らかな潤いが、乾ききった体の隅々まで、深く沁み込んでいくようだった。


「ふふ、ゆっくりでいいのですよ、ユウ。……飲み終わったら、傷を見せてごらんなさい」


 ルジナは悠を慈しむような目で見つめながら声をかけた。一息つくのを待って、彼女は悠の頬や腕の傷に、薬草を摺り潰した緑色のドロドロとした薬を塗り始めた。爽やかな薬草の生命力あふれるような匂いと共に、不思議と傷口に感じていた熱と痛みがすっと引いていった。


「痛みが…引いていく…」


「良かった。さあ、そこの毛皮に座っておやすみなさい」


「ありがとうございます、ルジナさん」


岩肌に敷かれた柔らかい獣の毛皮の上に腰を下ろすと、悠はようやく強張っていた肩の力を抜いた。


「どこからお話ししましょうか…」


 ルジナはそう言いながら、木をくり抜いた器をゆっくりと脇に置いた。泉の水面が、どこからか差し込む光を受けてゆらゆらと揺れている。


「クレアは、私たちがこの谷に匿いながら育ててきました。黒豹のレイラはここではあの娘の母親代わりだったのですよ」


「レイラが…お母さん…」


 悠は、先ほどの黒ヒョウの温もりを思い出した。あの大きな体に寄り添われた時の不思議な安心感。母親、という言葉がしっくりくる。


「クレアがこの村に来た時…私たちを見て酷く怯えていました。ろくに話も出来る状態ではなかったのです。…でも少しずつ心を開いてくれるようになって話を聞いているうちに、クレアが異世界から来たのだと知りました。ユウ、おそらくあなたと同じように」


 悠は、ゆっくりと頷いた。10歳…あの表情を変えない少女が、ここで声も出せないほど怯えていた——その光景を想像すると、胸の奥がかすかに痛んだ。


「本来、この世界に肌の白い人間はいません。私たちにとってはそれが当たり前でした。白い肌の人間というのは、伝説や言い伝えにのみ出てくるおとぎ話だと思っていたのですよ」


 悠は、いよいよ話は本題へ入っていくのだと直感して、無意識に姿勢を正していた。


「……それではお話ししましょうか。なぜ、同じ黒い肌をした人種の中にもあなたたちの命を狙うものがいて、私たちのように守ろうとするものがいるのか。その訳を」


「はい。お願いします」


 一瞬、洞窟の空気がしんっと静まり返った。水が岩を伝う、かすかな音だけが響いている。だがこの時、この静かな緊張感に、不思議と慣れ親しんだ感覚が蘇ってくるのを感じていた。


(お願いします…か。なんだか将棋の指導対局を思い出すな…)


 始まりは、盤を挟んで「お願いします」と頭を下げる。勝負の結果が見えた時には、負けた方が自ら「負けました」と潔く敗北を認め宣言する。将棋とはそういう礼節を自然と育んでくれる日本の文化だ。


 悠はすでにルジナに対して深い畏敬の念を抱いていた。丁寧な言葉使いは、ただの形式ではない。身についた礼儀正しさが、ルジナと向かい合うこの対話の中に、不思議な調和と凛とした空気感を生み出していた。


「少し…長い話になるかもしれませんが」


 ルジナは、作法の違いはあれ、悠のそうした姿から垣間見える「相手を尊重する精神」に、微笑みを浮かべながら語り始めた。


「まずこの大地には3つの人種が存在するのです。私たちのような肌の黒いダナ族。森林に住まう茶色の肌をしたモリト族。そして峻烈な山岳に住む赤銅色のルガ族。それぞれの種族の中にも、さらに細かく部族に分かれているのです。ここまでは、よろしいですね?」


「はい。分かります」


悠が真剣な面持ちで頷くと、ルジナは泉の澄んだ水面を見つめるように視線を落とした。


「かつて、三つの種族はそれぞれの領域を守り、互いに深く関わることはありませんでした。それは大地が定めた見えない境界線のようなものであり、私たちは互いの領域を侵さず、適度な距離を保つことで、静かな均衡を保っていたのです」


 悠はその言葉を聞きながら、頭の中に広大なサバンナを思い描いた。それぞれの場所で、それぞれの命が自分たちの生活を営んでいる。


「しかし……ある時から、不毛の地に住むダナ族の中で、他の種族との小さな諍いやトラブルが頻発するようになりました」


「トラブル……」


悠の脳裏に、昨日の血生臭い光景が浮かんだ。少女の仲間たちが命を奪われた、あの残酷な現実。


「ええ。そして、その火種を煽るように、誰が言い出したのかすら分からない、ある『言葉』が蔓延し始めたのです。それは……『俺たちの肌は、あいつらより黒い(ブラックだ)。だから俺たちこそが完璧な存在なのだ』という、なんの根拠もない狂気じみた思想でした」


「相手より肌が黒いから、完璧……? 意味が分からない!」


「ええ、おかしな話です」


 ルジナは静かにそう言って、少し間を置いた。否定するでも嘆くでもなく、ただ静かに前を見つめている。


「ですが、その実体のない言葉は、過酷な環境に生きる彼らの不満や劣等感を餌にして、人々の心を蝕んでいきました。気づけば、その異常な思想が、部族全体を飲み込むほどの絶対的な力を持つようになってしまったのです」


「……!?」


「……恐ろしいことに、彼らを率いる明確な指導者が誰なのか、今でも私たちには分かりません。ただ自分たちをブラックと呼び、『純血』と『至上』を掲げる顔のない集団の狂気が暴走しているのです。彼らは自らをこう呼んでいます――『黒の信徒』と」」


 悠は思わず眉をひそめた。あまりにも単純で、馬鹿げている。そんな小学生の悪口のような理由で、人が本気で他者を殺めようとするなんて信じられなかった。なのに「信徒」という神聖で静かな響きが、かえって彼らの狂信的な異常さを際立たせている。


(顔のない狂気……『黒の信徒』……)


 巨大な悪の親玉が命令しているわけではない。一人一人は普通の人間のはずなのに、集団になった途端、その「根拠のない言葉」に流され、残虐な行為を平然と行うようになる。それは現代の地球でも起こり得る、人間の最も原始的で、最もおぞましい「悪意の伝染」だった。異世界という非日常の中で、悠はあまりに生々しい人間の一面に恐怖を感じていた。


「彼らは、その暴走を完全に正当化するために、この地に古くから伝わる『言い伝え』と、私たちダナ族のみに伝わる『英雄譚』を組み合わせて、都合の良いように解釈し始めました」


ルジナは一度、目を閉じ、深く息を吸った。そして続けた。


「まず、ダナ族に伝わる英雄譚は、こうです。『かつて色を持つ肌の者は、白い肌の者に奴隷のように虐げられていた。ある時、英雄が現れて悪い白い肌の者をこの世から葬り去った。その英雄の子孫こそ、我々黒い肌を持つダナ族なのだ』と」


悠は息を吞んだ。奴隷の歴史は元の世界にもある。悠は父親との、ある日の会話を思い出していた。


「ねえ、父さん。どうしてアフリカ大陸だけが、真っすぐに定規で引かれたように国が分かれているの?」


「…ああ、それはね。ヨーロッパの人たちが、本当に世界地図に定規で線を引いて、アフリカを分け合ったんだよ。しかもそこに住む人たちを奴隷にしただけじゃなく、そのあと東南アジアの国や色んな国々を侵略して土地や食料を奪い、勝手に自分たちの『植民地』にしていったんだ」


(その時は、昔の話だと思っていた。…でも、どこにいても人間は人間なんだな……)


 悠が物思いに沈んでいると、ルジナが静かに続けた。


「そして本来の言い伝えは、ただこう告げていました。『空が光り、霧の中から現れる白い肌の者たちが、この世界に変革をもたらす』と。私たちはそれを、多様性と共栄の新しい時代の象徴だと捉えていました。しかし彼らは、それを『神が自分たちに供えるべき生贄を用意してくれた』と言い換えたのです」


「それが……『予言の証人あかしびと』?」


「そうです」


 悠の背筋に冷たいものが走った。突然、自分が狩りの獲物にされてしまった、この理不尽さ極まりない感覚…。


「そして、『彼の者を狩り、その首を祭壇に捧げることこそが、言い伝えを真実へと成就させるための儀式であり、自分たちが至上の存在であるという証明なのだ。その時こそ、黒き民がすべてを支配する時代が到来する』と歪めてしまったのです。彼らは復讐と恐怖でこの世界に君臨しようとしている。だからこそ、証人あかしびとの死こそが、絶対的な象徴となるのです」


悠の脳裏にあの男たちの言葉が再び蘇る。


『やつを殺せば、言い伝えが本当だったということが証明されるわけだ』


 彼らは自分たちの「でっちあげた正義」を満たすための道具として、ただ狂信的に悠たちを生贄として求めている。


(そう考えると、あの女の子が僕を探し出して守ろうとしてくれたのも、良い意味での変化を願っているからなのかもしれない。だけど……)


悠が直感的に思ったのは、これは「神聖な儀式」という名の「狩り(ゲーム)」だということだった。正義という大義名分を盾にして、集団で一つの命を追い詰める陶酔感。その幼稚で、底知れない邪悪さに、悠は生理的な嫌悪感を覚えた。


 しばらく、二人の間に沈黙が流れた。泉の水音だけが、変わらずそこにあった。


 だが、ルジナはそんな悠が感じている恐怖を振り払うかのように、ふくよかな胸に手を当て、深い慈愛と、決して揺るがない強い意志を込めて言った。


「一方で私たちは多様性と共存共栄を理想とするがゆえに、平和の象徴である『証人あかしびと』をお守りすることは私たちの誇りであり尊い使命なのです。あなたたちが存在すること自体が、この世界を変える原動力になると信じている……いえ、そう願っているのです!」


静かな洞窟の中に、ルジナの言葉が重く、そして温かく響き渡った。

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