第一章 ~霊猿を連れた少女と黒豹の乙女~(二)
* * *
(…あれ…どうしたんだろう、僕は…)
(あの女の子の名前……聞きそびれちゃったな……)
* * *
(…あれ…どうしたんだろう、僕は…)
(あの女の子の名前……聞きそびれちゃったな……)
(ううん、これはきっと夢だ。でも、なんでこんなに体がだるいんだろう……)
――ザリッ。
頬を、硬いヤスリのようなもので擦られる感触に、悠は顔をしかめた。
「……んっ」
その感触に徐々に意識が戻ってくる。
「んん……」
滑っとして生温かい感触。引き戻される意識の中でうっすらと目を開けると、夢の続きのような光景が目に入った。
「え……天使…?」
険しい岩の上に、真っ白な肌を持つ金髪碧眼の美しい少女が座っていた。高校生くらいだろうか。天使というには豹の皮を剥いで作ったような、野性味溢れる粗末な服を着ているだけ。剥き出しの四肢は、しなやかな筋肉が躍動している。少しイメージは違うが、物静かにたたずむ様子と整った可憐な顔立ちはまさに天使と言って過言ではなかった。
(お父さんに連れられて美術館に行ったとき見た、天使の絵みたいだ……)
ザリッ。
再び頬に、何とも言えぬ感触。
(さっきからなんだろう?)
悠は何気なく横を向いた。至近距離に、巨大な黄色い二つの眼球。その瞬間、縦に長い瞳孔がきゅっと細くなった。
「う、わあぁぁぁぁあっ!?」
悠は弾かれたように身を起こし、なりふり構わず後ずさった。
目の前にいたのは、艶やかな漆黒の毛並みを湛えた、見事な体躯の黒ヒョウだった。黒ヒョウは喉の奥で、ゴロゴロと重く低い音を鳴らしている。野生の肉食獣だけが放つ圧倒的な威圧感。その眼光に射すくめられ、悠の全身の血は一瞬にして凍りついた。
(か、噛みつかれる……!)
逃げ出そうと周囲を見回したが、あの黒い肌の男たちも、茶色の肌の少女も、巨大なオランウータンの姿もどこにもなかった。あるのは、見知らぬ赤茶けた岩場と、目の前で牙を覗かせる猛獣だけだ。
「た、た、助けて!!」
悠は岩の上の「天使」に向かって、悲鳴のような声をあげた。。
だが、少女は微動だにしないで悠を見つめている。氷のように冷たく澄んだ青い瞳。
無表情な顔からは何も読み取ることは出来ない。
「……ヒ、ヒョウが……!」
言葉が通じないのだろうか?それとも、目が見えていないのだろうか?ただ、風に微かになびく髪だけが、彼女が確かにそこに存在することを示している。
「……!?」
少女の視線が微かに動いた。
「グルァッ!」
直前まで大人しくしていた黒ヒョウが、突如として牙を剥き、威嚇の咆哮を上げた。そして、バネのようにしなやかな体躯を弾かせ、悠に向かって飛びかかってきた。
「うわああああっ!」
悠はパニックに陥り、無我夢中で岩場を転げ回った。黒ヒョウの鋭い爪が、悠の頬のすぐ側をかすめ、地面の赤土を深くえぐった。
這うようにして逃げ惑う悠。しかし、黒ヒョウは決して彼を逃がさない。悠が立ち上がろうとするたび、逃げ道を塞ぐように先回りし、ギリギリの距離で何度も何度も飛びかかってくる。
「や、やめろ……来るなっ! 来るなっ!!!」
恐怖で息が詰まる。
(な……なんで僕はまだ生きているんだ? いたぶるようにじわじわと殺されるんだろうか?)
だが、何度目かの攻撃を無様に転がって躱した時、悠の頭の片隅で、ふと気づいた。
(……僕はどこも噛まれてない……。爪で引き裂かれてもいない……。自分で転んで怪我をしたところから血が出ているだけだ……)
「ドンッ!!!!」
黒ヒョウの体が当たった。その野生の獣のしなやかで強靭な筋肉の感触に思わず恐怖の感情が走る。……だがそれだけだ。
飛びかかってくる軌道。爪の届く距離。それはまるで、悠がギリギリで躱せる方向をあえて残し、そちらへ誘導しているかのような……。
(……もしかして、最初から僕を殺そうとしてるわけじゃないのか!?)
荒い息をつきながら、悠がそう思った時だった。
岩の上にいた少女が、ふわりと羽のように軽やかに飛び降りた。後ろから微かに見える横顔は、小学校を卒業して春から中学生になる悠にはとても大人びて見えた。
「(まるで絵から抜け出して、動き出したみたいだ…)
少女が無造作に黒ヒョウの方に向かって歩き出すのを、夢見心地で眺めていると、突然、黒ヒョウが少女に向かって襲い掛かった。
「あっ、危ない!」」
先ほどとは比べ物にならないスピードと殺気。まるで黒い突風が吹き抜けたように、少女の金色に輝く髪がふわっと宙に舞った。
「……っ!?」
実際、悠には少女の体を黒ヒョウがすり抜けたかのように映った。確かにやられたと思ったのに、少女は何事もなかったかのように静かに立っている。
すかさず黒ヒョウが飛び掛かっても同じだった。黒ヒョウはさらに速度を上げて死角から容赦ない攻撃を仕掛けるにつれ、少女の体は徐々に変化していく。それはまるで舞が始まったかのように、悠の目にはスローモーションに映った。
「うわ……あ……」
迫り来る鋭い爪牙を、彼女は風に舞う花のようにしなやかに身をよじって躱す。ただ避けるだけではない。激しさが増すにつれ、すれ違いざまに、ヒョウの首筋や関節にタイミングよく手や肘を当て、その勢いを利用して巨大な獣の体を時に弾き飛ばすようにしながらいなしていく。
(ただ躱すだけじゃなくて、あんな方法もあるんだ…)
悠の目が輝いた。激しい衝突の音ではなく、柔らかな布と獣の毛が擦れるような流麗な音だけが、岩場に響いていた。
少女と黒ヒョウの姿は、まるでフィギュアスケートのアイスダンスのペアが、女性を持ち上げたり投げたりしながら演技をしているかのようだ。
荒々しい野獣の猛攻と、流れるような少女の体術。
それは、戦いというにはあまりに美しく、一種の芸術的な儀式のようにさえ思えた。
(すごい……いつまでも見ていたい……)
悠の表情から先ほどまでの恐怖の色は消え去り、すっかり華麗なショーを夢中になって見つめる少年の顔になっている。
やがて、黒ヒョウは少女の前に平伏するように大人しくなり、彼女の手のひらに甘えるように額を擦り付けた。少女は息一つ乱さず、ゆっくりと悠の方を振り返った。
「……わかった?」
初めて聞く、彼女の声。素っ気ない一言ではあったが、悠の耳に澄んだ音色のように心地よく響いた。
彼女の話している言葉は、悠の知っている「英語」だった。不思議なことに、単語の意味がダイレクトに心へ染み込んでくる。
土埃にまみれた悠は、恐怖を忘れて、ただその美しい立ち姿に見とれていた。
パチパチパチ……!!
我知らず手が動いていた。乾いた岩場に響く拍手の音。それは誰もいない観客席で捧げられる賞賛のように、どこか寂しく、けれど確かに二人だけの空気を変えた。おそらくこの世界には存在しないであろう賞賛の作法。束の間ではあったが、そこだけが元の世界を取り戻したような時間が流れた。
「あなたも、この世界に迷い込んだのね」
少女の目が微かに笑った……ような気がした。海のように透明で青い瞳がまっすぐに、悠を見つめている。先ほどまでの冷たい仮面のように感じられていたのが嘘のような優しい視線に、悠は思わず頬が紅潮するのを感じた。
「迷い込んだ……うん、そう!僕はこの世界に迷いこん…」
彼女の問いを反芻するように言葉を発した瞬間、凍結していた現実が強烈な衝撃と共に脳裏にフラッシュバックした。
「……っ! そうだ、父さん!!」
「お父さん?」
「うん! 一緒に飛行機に乗ってたんだ! あの後、どうなったんだろう?きっとはぐれちゃったんだ。それに、さっきまで一緒だったあの子は!?無事なのかな!!?」
弾かれたように周囲を見回しながら、色んなことがいっぺんに思い出されて、悠は再びパニックになりかけていた。12歳でたった一人、わけも分からない世界に迷い込んでしまったのだから無理もなかった。
少女は静かな視線で悠を見つめたまま、淡々とした口調で答えた。
「落ち着いて。慌てても何も解決しないわ。……一つ一つ、整理しましょう」
少女の表情には、同情の色もなければ、困惑や苛立ちの色もない。だが、その変わらぬ口調と表情に、悠は彼女がこれまで経験してきたであろう底知れない重みを無意識に感じ取り、気圧された。
(きっと、このお姉さんにも色んなことがあったんだろうな……。お姉さんの言う通りだ。しっかり頭を働かせて、今の状況を理解するんだ)
12歳の子供にとって、かなりの自制心を求められることであっただろう。だが悠は踏みとどまった。ゆっくりと深呼吸して気持ちを整えると、教えを乞うような目で真っすぐにクレアを見つめた。彼女は小さく頷いて視線を外すと、遠くを見つめるようにしながら言葉を続けた。
「あの霊猿のような守護獣を連れた女の子なら無事よ。……彼女は森の仲間のところへ帰っていったわ」
「……無事なんだ。良かった……」
「でも、あなたのお父さんのことは、私にもわからない。あなたを託された時も、周囲にそれらしい人はいなかった……この地であなたのような人間を見かけたらすぐに大きな噂になるはずよ。当然、私の耳にも入るはず」
「そう……なんですね」
悠ががっかりと肩を落とした、その時だった。漆黒の毛並みが悠の体にそっと擦り寄せられた。だが、先ほどまでの恐怖は微塵もなく、触れている部分から伝わる温もりが、自分を慰めてくれているのだとわかった。
「君は、本当は優しくて、おとなしいんだね……」
「彼女は私の守護獣。レイラよ。……ホダムとはこの世界の言葉で”その人を守護する精霊”の意味らしいわ」
「守護獣……。よろしく、レイラ」
悠が呼びかけると、レイラは喉の奥でゴロゴロと満足げに音を鳴らした。
(そう言えば、あの子も、オランウータンに名前をつけてたな。……あの子も可愛かったなぁ)
少女が自分を背中にかばってくれた時のことを思い出しながら、つい、そんなことを考えてしまったのも、心の落ち着きを取り戻した証拠だろう。悠は目の前の少女に改めて向き直った。
「あの……えっと……」
「クレアよ。クレア=メイ。それが私の名前。イギリスっいう国に住んでいたことだけは覚えているわ」
「クレアさんですね。僕は新島悠。日本人です」
「ユウね。私のことはクレアでいいわ。日本人……日本……。ごめんなさい、そういう国もあった気もするけど、よくわからない。こちらに来たのはまだ10歳の時だったから……」
「10歳!?……もうすぐ中学生になる僕でさえ、こんなに心細いのに……。でも、その……クレアはここでは特別な人なんですか? さっき、噂があれば『私』の耳に入るって……」
「そうね……私がここでどういう存在か。……私が答えるより、ルジナに直接聞いてみたほうがいいかもしれないわ」
その言葉を合図にしたかのように、岩場の奥、色鮮やかな花々に囲まれた洞窟の入り口のような場所から、穏やかな女性の声が響いた。
「――クレア。先ほど守護獣の猛る声が聞こえましたが、いかがなされましたか」
(ううん、これはきっと夢だ。でも、なんでこんなに体がだるいんだろう……)
――ザリッ。
頬を、硬いヤスリのようなもので擦られる感触に、悠は顔をしかめた。
「……んっ」
その感触に徐々に意識が戻ってくる。
「んん……」
滑っとして生温かい感触。徐々に引き戻される意識の中でうっすらと目を開けると、夢の続きのような光景が目に入った。
「え……天使…?」
険しい岩の上に、真っ白な肌を持つ金髪碧眼の美しい少女が座っていた。…高校生くらいだろうか。だが、天使というには豹の皮を剥いで作ったような、野性味溢れる粗末な服を着ているだけ。剥き出しの四肢は、しなやかな筋肉が躍動している。少しイメージは違うが、物静かにたたずむ様子と整った可憐な顔立ちはまさに天使と言って過言ではなかった。
(お父さんに連れられて美術館に行ったときに見た、天使の絵みたいだ……)
ザリッ。
再び頬に、何とも言えぬ感触。
(さっきからなんだろう?)
悠は何げなく横を向いた。至近距離に、巨大な黄色い二つの眼球。その瞬間、縦に長い瞳孔がきゅっと細くなった。
「う、わあぁぁぁぁああかっ!?」
悠は弾かれたように身を起こし、なりふり構わず後ずさった。
目の前にいたのは、艶やかな漆黒の毛並みを湛えた、見事な体躯の黒ヒョウだった。黒ヒョウは喉の奥で、ゴロゴロと重く低い音を鳴らしている。野生の肉食獣だけが放つ圧倒的な威圧感。その眼光に射すくめられ、悠の全身の血は一瞬にして凍りついた。
(か、噛みつかれる……!)
逃げ出そうと周囲を見回したが、あの黒い肌の男たちも、茶色の肌の少女も、巨大なオランウータンの姿もどこにもなかった。あるのは、見知らぬ赤茶けた岩場と、目の前で牙を覗かせる猛獣だけだ。
「た、た、助けて!!」
悠は岩の上の「天使」に向かって、悲鳴のような声をあげた。。
だが、少女は微動だにしないで悠を見つめている。氷のように冷たく澄んだ青い瞳。
無表情な顔からは何も読み取ることは出来ない。
「……ヒ、ヒョウが……!」
言葉が通じないのだろうか?それとも、目が見えていないのだろうか?ただ、風に微かになびく髪だけが、彼女が確かにそこに存在することを示している。
「……!?」
少女の視線が微かに動いた。
「グルァッ!」
直前まで大人しくしていた黒ヒョウが、突如として牙を剥き、威嚇の咆哮を上げた。そして、バネのようにしなやかな体躯を弾かせ、悠に向かって飛びかかってきた。
「うわああああっ!」
悠はパニックに陥り、無我夢中で岩場を転げ回った。黒ヒョウの鋭い爪が、悠の頬のすぐ側をかすめ、地面の赤土を深くえぐった。
這うようにして逃げ惑う悠。しかし、黒ヒョウは決して彼を逃がさない。悠が立ち上がろうとするたび、逃げ道を塞ぐように先回りし、ギリギリの距離で何度も何度も飛びかかってくる。
「や、やめろ……来るなっ! 来るなっ!!!」
恐怖で息が詰まる。
(な……なんで僕はまだ生きているんだ? いたぶるようにじわじわと殺されるんだろうか?)
だが、何度目かの攻撃を無様に転がって躱した時、悠の頭の片隅で、ふと気づいた。
(……僕はどこも噛まれてない……。爪で引き裂かれてもいない……。自分で転んで……怪我をしたところから血が出ているだけだ……)
「ドンッ!!!!」
黒ヒョウの体が当たった。その野生の獣のしなやかで強靭な筋肉の感触に思わず恐怖の感情が走る。……だがそれだけだ。
飛びかかってくる軌道。爪の届く距離。それはまるで、悠がギリギリで躱せる方向をあえて残し、そちらへ誘導しているかのような……。
(……もしかして、最初から僕を殺そうとしてるわけじゃないのか!?)
荒い息をつきながら、悠がそう思った時だった。
岩の上にいた少女が、ふわりと羽のように軽やかに飛び降りた。後ろから微かに見える横顔は、小学校を卒業して春から中学生になる悠にはとても大人びて見えた。
「(まるで絵から抜け出して、動き出したみたいだ…)
少女が無造作に黒ヒョウの方に向かって歩き出すのを、夢見心地で眺めていると、突然、黒ヒョウが少女に向かって襲い掛かった。
「あっ、危ない!」」
先ほどとは比べ物にならないスピードと殺気。まるで黒い突風が吹き抜けたように、少女の金色に輝く髪がふわっと宙に舞った。
「……っ!?」
実際、悠には少女の体を黒ヒョウがすり抜けたかのように映った。確かにやられたと思ったのに、少女は何事もなかったかのように静かに立っている。
すかさず黒ヒョウが飛び掛かっても同じだった。黒ヒョウはさらに速度を上げて死角から容赦ない攻撃を仕掛けるにつれ、少女の体は徐々に変化していく。それはまるで舞が始まったかのように、悠の目にはスローモーションに映った。
「うわ……あ……」
迫り来る鋭い爪牙を、彼女は風に舞う花のようにしなやかに身をよじって躱す。ただ避けるだけではない。激しさが増すにつれ、すれ違いざまに、ヒョウの首筋や関節にタイミングよく手や肘を当て、その勢いを利用して巨大な獣の体を時に弾き飛ばすようにしながらいなしていく。
(ただ躱すだけじゃなくて、あんな方法もあるんだ…)
悠の目が輝いた。激しい衝突の音ではなく、柔らかな布と獣の毛が擦れるような、流麗な音だけが岩場に響いていた。
少女と黒ヒョウの姿は、まるでフィギュアスケートのアイスダンスのペアが、女性を持ち上げたり投げたりしながら演技をしているかのようだ。
荒々しい野獣の猛攻と、流れるような少女の体術。
それは、戦いというにはあまりに美しく、一種の芸術的な儀式のようにさえ思えた。
(すごい……いつまでも見ていたい……)
悠の表情から先ほどまでの恐怖の色は消え去り、すっかり華麗なショーを夢中になって見つめる少年の顔になっている。
やがて、黒ヒョウは少女の前に平伏するように大人しくなり、彼女の手のひらに甘えるように額を擦り付けた。少女は息一つ乱さず、ゆっくりと悠の方を振り返った。
「……わかった?」
初めて聞く、彼女の声。素っ気ない一言ではあったが、悠の耳に澄んだ音色のように心地よく響いた。
彼女の話している言葉は、悠が知っている「英語」だった。不思議なことに、単語の意味がダイレクトに心へ染み込んでくる。
土埃にまみれた悠は、恐怖を忘れて、ただその美しい立ち姿に見とれていた。
パチパチパチ……!!
我知らず手が動いていた。乾いた岩場に響く拍手の音。それは誰もいない観客席で捧げられる賞賛のように、どこか寂しく、けれど確かに二人だけの空気を変えた。それはおそらくこの世界には存在しないであろう賞賛の作法。束の間ではあったが、まるでそこだけが元の世界を取り戻したような時間が流れた。
「あなたも、この世界に迷い込んだのね」
少女の目が微かに笑った……ような気がした。海のように透明で青い瞳がまっすぐに、悠を見つめている。先ほどまでの冷たい仮面のように感じられていたのが嘘のような優しい視線に、悠は思わず頬が紅潮するのを感じた。
「迷い込んだ……うん、そう!僕はこの世界に迷いこん…」
彼女の問いを反芻するように言葉を発した瞬間、悠の脳裏に、凍結していた現実が強烈な衝撃と共にフラッシュバックした。
「……っ! そうだ、父さん!!」
「お父さん?」
「うん! 一緒に飛行機に乗ってたんだ! あの後、どうなったんだろう?……そうだ、きっとはぐれちゃったんだ。それに、さっきまで一緒だったあの子は!?無事なのかな!!?」
弾かれたように周囲を見回しながら、色んなことがいっぺんに思い出されて、悠は再びパニックになりかけていた。12歳でたった一人わけも分からない世界に迷い込んでしまったのだから無理もなかった。
少女は静かな視線で悠を見つめたまま、淡々とした口調で答えた。
「落ち着いて。慌てても何も解決しないわ。……一つ一つ、整理しましょう」
少女の表情には、そんな悠の姿に同情の色もなければ、困惑や苛立ちの色もない。だが、その変わらぬ口調や表情に、悠は彼女がこれまで経験してきたであろう底知れない重みを無意識に感じ取って気圧された。
(きっと、このお姉さんにも色んなことがあったんだろうな……。お姉さんの言う通りだ。しっかり頭を働かせて、今の状況を理解するんだ)
それは12歳の子供にとって、かなりの自制心を求められることであっただろう。だが悠は踏みとどまった。ゆっくりと深呼吸して気持ちを整えると、教えを乞うような目で真っすぐにクレアを見つめた。彼女は小さく頷いて視線を外すと、遠くを見つめるようにしながら言葉を続けた。
「あの霊猿のような守護獣を連れた女の子なら無事よ。……彼女は森の仲間のところへ帰っていったわ」
「……無事なんだ。良かった……」
「でも、あなたのお父さんのことは、私にもわからない。あなたを託された時も、周囲にそれらしい人はいなかった……この地であなたのような人間を見かけたらすぐに大きな噂になるはずよ。当然、私の耳にも入るはず」
「そう……なんですね」
悠ががっかりと肩を落とした、その時だった。漆黒の毛並みが悠の体にそっと擦り寄せられた。だが、先ほどまでの恐怖は微塵もなく、むしろ触れている部分から伝わってくる温もりから、自分を慰めてくれているのだとわかる。
「君は、本当は優しくて、おとなしいんだね……」
「彼女は私の守護獣。レイラよ。……ホダムとはこの世界の言葉で”その人を守護する精霊”の意味らしいわ」
「守護獣……。よろしく、レイラ」
悠が呼びかけると、レイラは喉の奥でゴロゴロと満足げに音を鳴らした。
(そう言えば、あの子も、オランウータンに名前をつけてたな。……あの子も可愛かったなぁ)
悠は彼女が自分を背中にかばってくれた時のことを思い出しながら、つい、そんなことを考えてしまったのも、心の落ち着きを取り戻した証拠だろう。悠は目の前の少女に改めて向き直った。
「あの……えっと……」
「クレアよ。クレア=メイ。それが私の名前。イギリスっいう国に住んでいたことだけは覚えているわ」
「クレアさんですね。僕は新島悠。日本人です」
「ユウね。私のことはクレアでいいわ。日本人……日本……。ごめんなさい、そういう国もあった気もするけど、よくわからない。こちらに来たのはまだ10歳の時だったから……」
「10歳!?……もうすぐ中学生になる僕でさえ、こんなに心細いのに……。でも、その……クレアはここでは特別な人なんですか? さっき、噂があれば『私』の耳に入るって……」
「そうね……私がここでどういう存在か。……私が答えるより、ルジナに直接聞いてみたほうがいいかもしれないわ」
その言葉を合図にしたかのように、岩場の奥、色鮮やかな花々に囲まれた洞窟の入り口のような場所から、穏やかな女性の声が響いた。
「――クレア。先ほど守護獣の猛る声が聞こえましたが、いかがなされましたか」




