第一章 ~霊猿を連れた少女と黒豹の乙女~(一)
ジリジリと肌を焼く太陽の熱で目を覚ますと、新島悠の視界に、見たこともないほど濃い赤に染まった夕焼けが広がっていた。高く生い茂った草が風に揺れ、黄金色の波のようにうねっている。遠くには、雄大な大地をゆっくりと歩く四つ足動物のシルエット。そのバックでは、微かな太鼓の音がリズムを刻み、聞いたことのない人々の掛け声が響いていた。
「……ここは、どこ?」
かすれた声が、乾いた風に吸い込まれていく。口の中はカラカラに乾き、舌が砂のようにざらついていた。
悠はふらつく身体を起こし、周囲を見渡した。見渡す限り、アスファルトの道路も、電柱も、建物の影すらない。点在するのは、見たこともない形状の巨大なバオバブのような木々と、背丈ほどもある硬そうな草ばかりだった。
(あれ……父さんは……?)
12歳の悠の記憶は、ひどく混乱していた。
世界中を飛び回るフォトグラファーである父の取材旅行に同行し、小さな機体の飛行機で海の上を飛んでいたはずだった。「魔の海域」と呼ばれるバミューダ海域に差し掛かろうとした、その時までは。
空が突然、薄く発光するような白い霧に包まれた。飛行機の計器が狂ったように回転し始め、パイロットのパニックを起こしたような叫び声が聞こえた。機体がガタガタと大きく揺れ動き、父親が悠を庇うよ
うに抱きしめた――そこまでしか、覚えていない。
「父さん……ッ!」
立ち上がり、声を張り上げる。だが、こだますら返ってこない。
ここは少なくともカリブ海周辺の島ではない。いつかテレビや図鑑で見た、どこかアフリカのサバンナの景色に似ていた。
背筋に冷たいものが走った。世界から自分だけが切り離されてしまったような、圧倒的な孤独と恐怖。
何より悠を戦慄させたのは、遠くに見える四つ足動物よりも、その手前で動く人間らしきシルエットだった。手に長い槍を持ち、明らかに現代の人間とは違う異様な雰囲気を放っている。
ガサッ――。
不意に、背後の茂みが大きく揺れた。
ビクッと肩をすくめて振り向くと、そこから飛び出してきたのは、一人の少女だった。
「……っ、はぁ、はぁ……!」
悠と同じくらいの年頃だろうか。東南アジア系の顔立ち。美しい茶褐色の肌に、森の木々のような深い緑色の布切れを纏っている。だが、その布と褐色の肌には、べっとりと生々しい赤色の液体がついていた。
(血!!……怪我!?)
「だ、大丈夫!?」
思わず声をかけてしまった悠に、少女の大きな目が見開かれる。驚きの表情で悠を見つめていた。
「(証人!)」
「え……? あかしびと?」
確かにそう言ったのがわかった。
「(見つけた……やっぱり、私が感じた大気の振動は気のせいじゃなかったんだわ)」
「(いだぞっ!!!!!)」
その時、鋭い叫びと共に、遠くに見えたシルエットの人物がこちらを指さすのが見えた。
「――(逃げて!)」
少女は悠をまっすぐに見つめながら、必死な様子で叫んだ。音の響きは英語でも日本語でもない、全く聞いたことのない言語だった。にもかかわらず、悠にはなぜかその意味が理解できた。音に合わせて意味が体の中へ流れ込んでくる感覚とでも言えばいいのか。いずれにせよ切迫した状況であることは疑いようがなく、悠は少女と共にその場から草に身を隠しながら後に続いた。
「(こっちよ!)」
少女の動きは機敏だった。だが悠は思うように進むことすらできない。もどかしそうに悠の手を取ると、少女はぐいぐいと引いた。草をかき分ける彼女の音は、驚くほど静かだ。一方の悠は、硬い草の葉が肌に刺さる痛みに耐えながら、必死に食らいつくしかなかった。こんな状況ではあったが、悠は握られた手を見ながら、茶色い肌と自分の白っぽい肌が重なり合っていることに不思議な感動を覚えていた。
(僕と同じくらいの女の子……。たくましいけど柔らかくて、温かい……)
一瞬そんな風に思ってしまったのも、悠にはまだ現実感がなかったからだろう。だが、そんな非現実感も次の瞬間、吹き飛んだ。
「(見つけたぞ!!)」
突然、前方に追手の仲間と思しき男たちが現れた。
肌は漆黒。背丈は悠の身近にいた大人の男たちと比べても一回りは大きい。まるで本で見るような未開の地の部族のように、手には長い槍を持ち、不気味な眼差しでこちらを見下ろしている。槍先からは、まだ新しい血が滴っていた。
「(他の連中みたいに、大人しく串刺しになってりゃあ苦しまずに済んだものを)」
「(卑怯者! 仲間はちゃんと挨拶したのに、いきなり襲い掛かってくるなんて!)」
「(お前たちが俺たちの領土に踏み入るのが悪い。貴様らのような家畜がウロウロするの
は目障りなんだよ!)」
悠は息が止まりそうだった。腰に獣の皮を巻き、吹き矢のような筒をぶら下げた男たち。硬そうな木で作られた槍の先端には、鋭く削り出された石や骨の刃が括り付けられ、顔に施された白や赤の幾何学模様のペイントが、いやがおうにも不気味さを際立たせていた。
「(おっ……おい、後ろにいるやつを見ろ!!!?)」
突然、その表情が明らかな驚愕に変わった。目は見開かれ、口はポカンと開いたまま閉じることを忘れたかのようだ。
「(間違いない、証人だ。ようやく見つけたぜ!……言い伝えは本当だったのか!? 俺たちブラックこそが、至上の存在だったんだ!!!)」
「(おおっ、そうだ!!! やっぱり他の奴らは俺たちの奴隷となるために、神が用意した家畜だったんだ!!)」
「(『予言の証人』……やつを殺して生贄として捧げれば、俺たちの正しさが証明されるわけだ。あいつの首を刈り取って祭壇に飾り付けようじゃないか!!)」
男たちは血生臭い空気をまとわせながら、狂気のような笑い声を上げた。聞いたこともない音の羅列なのに、その傲慢で残酷な意味が悠にははっきりとわかった。
「い、生贄…!?」
悠が震える声で繰り返したとき。
少女が、盾になるように悠の前に両手を広げて立ちはだかった。
「あ……?」「なんだあ?」
少女の姿は毅然としていた。今しがた出会ったばかりの、見ず知らずの異国の少女。だが、その勇気ある小さな背中は、恐怖で凍りつきそうだった悠の心に、不思議な温もりを与えてくれた。
(微かに震えてる……この子だって怖いんだ。でも、僕をかばおうとしてくれてる……)
「(私たちは、あんたたちの家畜じゃない!! この人は殺させない!!)」
「(お前みたいなガキに何ができるってんだ!?)」
「(二人とも一思いに殺してやろうか?)」
男たちは槍を、獲物に投げつけるように構えた。
だが少女は怯むことも、男たちから目を逸らすこともない。その横顔は、幼いながら殉教者のような尊い表情をしていた。
――ズズンッ……!
突如、男たちの背後にある巨大なバオバブの木が、大きく揺れた。枝葉が嵐のようにざわめき、太い幹の上から「何か」が飛び降りてくる。
ドスゥン!!と地響きを立てて着地したのは、全身を赤茶けた長い毛で覆われた、巨大な類人猿――オランウータンだった。現実の地球にいる個体よりも二回りは大きく、その双眸には確かな知性と、少女を脅かす者への激しい怒りが宿っていた。
「(なんだ!? この獣は!)」
男たちの狂気が、一瞬にして驚愕に変わった。巨大なオランウータンは少女を護るように両腕を大きく広げ、大気を震わせるほどの咆哮を上げた。毛先が夕日を浴びてオレンジ色を帯びた金色に輝いている。
「守護獣!!?」
少女の唇から漏れたその言葉には、震えるような喜びと崇拝が混じっていた。
(ホダム?……あのオランウータンの名前なのか?)
「(お、おいっ!! あのガキ、使役獣を従えてやがる!!)」
「(あの歳でバヤンガンを使いこなすのか!?)」
少女とオランウータンの間に、陽炎のような光の筋が見えたのは、気のせいだろうか。今の少女の顔つきはどこか巫女を思わせる雰囲気を漂わせている。
「あなたたちの使役獣と一緒にしないで。この子は守護獣。名前は……そう、リンバよ。深い森の奥から来たリンバ。私たちを助けるために現れてくれたのね。ありがとう、リンバ」
少女の茶色の瞳が、深い緑色に光った。呼応するようにリンバが再び地鳴りのような咆哮を上げる。
太い腕を振り回しながら、リンバは男たちの群れへと突っ込んでいく。その破壊力は凄まじかった。男たちが構えた木の槍は、飴細工のように容易く叩き折られ、漆黒の巨躯を持つ男たちが、風に舞う枯れ葉のように宙を舞い吹き飛ばされた。
「(ひぃっ! 化け物め!)」
「(怯むな! ただの獣だ、毒矢を撃ち込め!)」
恐慌状態に陥りながらも、何人かの男が吹き矢を構え、立て続けに針を放った。しかしリンバは大きな体を軽く振るわせ、長く硬い体毛でそれらをすべて弾き飛ばした。意に介する様子もなく男たちの方へ向かうと、圧倒的な力で蹂躙していく。
「――(今よ、走って!)」
少女が再び悠の手を強く引き、駆け出した。男たちの意識がホダムに向いている今が逃げるチャンスだ。悠も我に返り、背丈ほどもある硬い草をかき分けながら無我夢中で走った。
背後からは怒号と悲鳴、そして大地を揺らすような獣の咆哮が響き続けている。
「はあ、はぁ……ま、待って!!」
少女は裸足でありながら、原野を駆ける風のように速い。一方の悠は肺が焼けるようで、ついていくのがやっとだった。いや、もう限界だった。
「僕……もう……息が……」
「(頑張って! もうすぐ森林に入る。森の中に入ってしまえば……XXX……)」
もはや目の前が霞んで何も見えない。意識が遠のいていく。ただ遠くで少女の叫び声が微かに聞こえた気がした。それが悠の最後の記憶だった。




