第八章 ~花の残り香と、心の翼~(一)
悠の心は、激しく動揺した。クレアが自分のことを心配してくれているのが、その横顔から痛いほど伝わってきたからだった。
(クレア……心配かけてごめん。急いで帰るから……!)
今日一日、重かった足取りのことをこれほど後悔したことはなかった。
(今すぐにでも飛んで帰って、安心させてやらなきゃ……そう、急いでクレアの元へ駆けつけ、その足でサリが目を覚ます前にまた戻ってくることも今の僕になら不可能じゃない!……いや…でも、それはありえない……)
悠の頭に浮かんだ思い付きは、一緒に手を繋いで歩きながら、掌を通じて届けてくれたサリの一途な心に対してあまりにも不誠実に過ぎた。
(明日には会えるんだ……、そう、あと一日…いや、半日の辛抱だ……)
悠の頭がフル回転する。何か自分に対して納得がいく答えを探しださなければ、平常でいられる自信がなかった。
(……クレアが僕のことをどんな風に思ってくれているかなんてわからない。僕の名前を呼んでくれたのも姉弟のような感情からかもしれないし、僕の見間違いや勘違いの可能性だってあるんだ……)
しかし、将棋の時とは違って、思考に頼るほど自分の感情も…その行き場も…ぐちゃぐちゃになってわからなくなっていく。自身の感情がこれほど乱れるのは、初めての経験だった。そんな悠の心を救ってくれたのは、サリの言葉だった。
「私には、聞こえる…。ユウの中で今、二つの音楽が鳴っているの……きっとそれはいつか、お互いを打ち消し合うことなく重なり合って、より重層的な、素敵な音楽になってこの世界中に響き渡るんだわ」
考えに考えてもなお思考に詰まった時……ふと昔見た棋譜が甦り、そこに無意識に導き出されたヒントが隠されている……そんな経験に似ていた。駒を取りに行くわけでもなく、逃がすわけでもなく…ただじっと耐える一手。それは、決して諦めではなく、自分を信じる勇気。
(サリ……)
悠はもう一度、上を見上げた。夜空に輝く月に重なって、クレアのあの不器用そうな微笑みが浮かんだ。
「お帰り…ユウ」
(……クレアはきっと、何事もなかったようにそう言うだろう……)
温かい感情が悠の中に広がり、激しく揺れていた水面が静けさを取り戻したように、悠の心はようやく落ち着きを取り戻した。静かな水面が月の姿を映すように……悠の心の鏡には、今ハッキリとクレアに対する想いが映し出されていた。
悠の中で、太陽と月の音楽が、静かに流れていた。
翌日――。
悠とサリは、いつものように手を繋ぎながら、サバンナを歩いていた。空気に緑の匂いが混じり始め、足裏に感じる土の感触が徐々に湿り気を帯びたものに変わっていく。遠くから、かすかにゴンドランの音が風に乗って流れてきた。鳥や虫の声が豊かさを増し、木々の緑が深くなっていく。全身の感覚が、モリト族の村へ帰ってきたのだということを知らせていた。
もっとも、空気が湿り気を帯びていたのは、モリト族の村が近づいていたからだけではない。サバンナは雨季に入ろうとしていた。そんな、より緑が濃くなった懐かしい森の匂いを、リンバは大きな体をゆったりと揺らしながら、胸一杯に吸い込んでいるかのようだった。
「…もうすぐ、ユウとの旅もお終いね」
だが、その声に感傷的な響きはない。ただ、『これからまた新しい日々が始まる』…そんな希望を感じさせるような、明るいサリらしい口調だった。
「そうだね。今回は色々あったなあ……」
悠は今回の旅を振り返った。そもそもの今回の旅は、ムワンパとラヤの痛ましい姿から始まっていた。二人を埋葬し、ジャヒとの戦いがあり、マジマクウを見て衝撃を受け、ルジナの村を訪れて、サリと二人で谷へと戻った。ざっと思い出すだけでも、たくさんの出来事が甦ってくる。
「…ねえ。このまま村に戻る前に、ちょっとだけその樹の上でお話ししない?」
サリは、鬱蒼と生い茂る樹々の中から、ガジュマルの木を指して言った。気根が絡み合って神秘的な雰囲気を持つこの木は、精霊が宿るとも言われている。太い枝にはたくさんの葉が生い茂り、この旅の締めに二人でゆっくりと話をするにはちょうど良いロケーションに映った。
「そうだね。陽もまだ高いし、少しだけゆっくりしようか」
二人はガジュマルの樹に登り、並んで枝に腰を下ろした。このまま思い出話で盛り上がるかと思ったが、二人は手を繋ぎあったまま、それぞれの心の中で今回の旅を振り返っていた。言葉はなくともお互いの考えが伝わってくるようだった。二人はいつの間にか肩を寄せ合うように寄り添っていた。サリが悠を見つめ、悠がサリを見つめ返した。
二人はどちらかともなく、自然に唇を重ね合わせていた。
――その少し前。アディリの元へ、村の見張り役が駆けつけていた。少しでも早くこの知らせを届けようという、もどかしさと喜びが混じった表情で、アディリの顔を見るなり報告した。
「アディリ!サリとユウが帰ってきました!」
「……おお、そうか!…それは何よりじゃ」
アディリの傍には、クレアが立っていた。クレアの無表情な顔には嬉しさとホッとした表情が微かに浮かび、澄んだ青い目には明らかな喜びの光が宿っていた。
「ユウが……!?」
次の瞬間には、クレアはアディリの家を飛び出していた。黄金の髪を風になびかせながら、樹から樹へと飛び移るようにして、村の入り口へ向かう。レイラを呼ぶことすら頭から抜けていた。
(ユウ…!)
クレアが村の入り口に到着しても、悠の姿は見当たらなかった。
(ユウ……どこ?)
珍しく、クレアの様子には微かな焦りが見えていた。目と閉じて耳を澄まし、悠の気配を感じて樹の上を飛び回りながら悠の姿を探した。
(いた……!!)
クレアが、悠の元へと飛び出しかけた時、動きが止まった。
それはちょうど、悠とサリが唇を重ね合わせていたところだった――。
クレアは二人から目をそらすと、力ない様子で引き返した。樹から樹へ飛び移った瞬間に、飛び出ていた枝に足をぶつけた。
「痛っ……」
クレアにはあり得ないことだった。そこへ、クレアの心の異変を感じてか、レイラがやってきた。レイラはクレアの脚にうっすらと血が滲んでいるのを見て、いたわるようにペロペロと舐めた。そんなレイラの姿を、どこか心ここにあらずといった様子で見つめながら、クレアがポツリと言った。
「……レイラ。行きましょう……」
クレアは立ち上がると、あてもなく村を飛び出していた。遠くで雷が鳴り始めたと思うと、雲が湧き上がってきてポツリポツリと乾いた大地に染みが出来たかと思うと、突然バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。スコールだった。
(……二人の邪魔をしないようにしなきゃ……。私はユウの保護者みたいなものなのだから……もう、役目は終わったんだわ。……それに…、ユウはいつかきっと、元の世界へと帰ってしまうんだもの……)
大粒の雨が葉を打ち、地面を叩き、あっという間に視界を白く霞ませていく。ずぶ濡れのまま走るクレアの後ろを、レイラが静かに追いかけていく。
クレアも年齢にすれば18歳であったが……レイラを除けばずっと一人でいることが多かったクレアは、どこか少女のままの心を残していた。今のクレアは、この世界に来たばかりだった10歳の少女に戻ってしまったかのような孤独に襲われていた。
爽やかな快晴から一転――。突然のスコールを、ガジュマルの樹の上で寄り添いながらやり過ごした悠とサリが、村に戻ってアディリを訪れた時には、クレアは村からいなくなっていた。
サリと共にことの顛末をアディリに報告し、ひとしきり話が盛り上がった後で、悠は先ほどから気になっていたかのように尋ねた。
「……そう言えば、あの…クレアが見当たらないんですけど、知りませんか?アディリに報告する前に顔だけでも見せておこうと思って、お借りしていた家へ行ってみたんですけどいなくて。てっきりこちらにお邪魔してるのかと思ったんですけど」
「ん?……クレアなら、ユウが帰ってきたことを聞いて、血相を変えて出て行きおったが、会っていないのかね?」
「え?…ええ。たぶん入れ違いになったのだと思います。ちょっと探してきます!」
悠が少し心配顔になって、アディリの部屋を出て行こうとすると、サリが声をかけてきた。
「ユウ、私も一緒に探そうか?」
先ほどキスを交わしたばかりのサリが、悠を気遣うように声をかけてくれることに感謝の気持ちを覚えながら、悠はサリに微笑みかけた。
「大丈夫だよ、サリ。アディリともっと話をしたいこともあるだろうし、一人で探すよ」
そう言って、村の中を探し回る悠だったが、夕方になってもクレアの姿は見当たらなかった。
(ロボにクレアの匂いを辿ってもらうにも、昼間のスコールで匂いは流れてしまっているだろうし……。とりあえず、家に戻ってみよう。クレアも帰ってきているかもしれない……)
募る不安の中、悠はクレアと一緒の部屋に戻っては見たものの、部屋の中は空っぽだった。
(クレアは、昼間までここにいたことは間違いないんだ…)
部屋の中には。懐かしいクレアの花のような香りが微かに残っていた。
(この残り香がなければ…ここに人が住んでいたかもわからないだろうな……)
悠は、いつもクレアが横になっていた場所を見つめながら、あの谷のことを思い出した。クレアがいたところは、いつもただガランとした空間だけが残されていた。
(クレアは……僕のことを心配しながら、ここで一人で待っていてくれたんだ…)
悠は、あの月を見ていたクレアの横顔を思い出すと、自分のあまりの迂闊さに下唇を噛んだ。
(…そうだ、シオン!!……どうして僕はすぐに気づかなかったんだ!)
だが、悠がシオンの『精神の翼』を緊急時以外に使うことを無意識に避けてしまうのには理由があった。タイミング次第によっては、サリの寝顔を見てしまった時のように、プライバシーを覗き見てしまう可能性があることに気づいていたからだった。今の悠には、精神の翼を使う強い理由があった。
「シオン、クレアを探してくれるかい?」
悠の心配するような表情と声に応えるようにシオンは頷くと、悠の掌めがけてヒョイッと飛び降りると、すぐに目を閉じて動かなくなった。悠も一緒になって目をつぶるが、クレアの姿はどこにも映らなかった。
(…詰んだ……。どこにもいない……クレア……)
恐ろしいほどの喪失感が悠を襲っていた。シオンが目を開き、腕を伝って肩に飛び乗ると、呆然自失としている悠を慰めるように、頬に頭を擦りつけている。
(クレアも……こんな想いで僕を待っていてくれたのだろうか……)
気づけば、外はいつの間にか夜になっていた。
「クレア……」
悠は月を見上げながら、その名を呟いた……。




