第七章 ~月と太陽と、もう一つの世界の果て~(三)
自らの悪行を棚に上げ、相手に罪悪感と絶望を植え付けるような毒のある言葉を残し、フィティナたちは去っていった。
(これで、フィティナは十分、黒の信徒たちの前で威信を示して去っていったってわけだ……。ルジナが気になるし、これ以上騒ぎが大きくならなかったのは助かる……)
ジャヒはしばらく警戒を解かないままフィティナ達の様子をうかがっていた。ジャヒを殺し損ねたとはいえ、ルジナを倒したことは黒の信徒たちにとってそれ以上にインパクトがあることだったし、自分のことなどいつでも殺せると信徒たちに印象付けることで、成果としては十分ということだろう。
(さて……俺はこれからどうしたものか……そんなことよりも、ルジナはどうなった!?)
ジャヒは、黒の信徒たちが完全に去っていったことを見届けると、ルジナの村へ戻っていった。
一方、ルジナはと言えば、村人たちが駆け寄ったときには、パフアダーに噛まれた足首のすぐ上には植物の蔓がしっかりと巻き付いていた。植物のホダムを使っての、心臓に毒が回らないようにする咄嗟の処置だった。
「何でもいいから……引き抜いた花の根を傷口に……」
「わかっています、ルジナ!」
苦しそうな様子をしながらルジナが指示を出すより先に、バラカが大地から引き抜いてきた小さな花の根を傷口に当てると、ルジナの身体がぼうっと緑色に光った。すると、花の根はみるみる根を伸ばしながらルジナの身体に入り込んでいく。ルジナは目を閉じ、額から脂汗を流しながら集中している。しばらくすると、茎が濃い深緑色に変わり、白かった花びらが徐々に黒く染まっていった。
(……植物の根に毒を吸い出させる……いつ見ても見事だ……)
バラカはこの施術の様子を見ながら、この神業とも呼べる技術は、おそらくルジナにしか扱えない一代限りの技術で終わってしまうのだろうと思うと、深い畏敬の念と共に惜しく思うのだった。ルジナが処置を終えたのを確認すると、いつも解毒の手当てをする時に使っていた薬を目の前にかざした。
「ルジナ、こちらでよろしいですか?」
「…ええ…。それを傷口に塗っておいてちょうだい。それと、そちらの薬を飲ませて…」
「わかりました」
バラカが手分けしながら処置と与薬をすませると、ルジナはようやくほっとしたように深いため息をついて目をつぶった。
「……これでいいわ。あとはしばらく休ませてちょうだい」
ルジナの頬には血色が戻っており、周りの者たちは安堵のため息を漏らした。
――夜が明けて、サバンナに朝が来た。
地平線の彼方から差し込む朝の光が、サバンナの大地をオレンジ色に染め上げていく。夜露に濡れた草の先が光を受けてきらきらと輝き、遠くでは鳥たちが次々と声を上げ始めていた。昨夜の出来事が嘘のように、空気は清々しく澄んでいた。
村の外れで、ジャヒはアルタンの傍らに腰を下ろしながら、その黄金色の鬣を無言で撫でていた。アルタンは目を細めながら、低く穏やかな息を吐いている。
(……俺が今、感じているこの感情は何なんだろうな)
それは、不安でも諦めでもなかった。ただ、夜明けの光の中でアルタンの温かな体温を感じながら、ジャヒはゆっくりと長い息を吐き出した。
「さてと、出発するか!」
ジャヒは立ち上がると、行く当てもない旅路へと一歩足を踏み出した。だが、村の出入り口に立っていたのは、バラカとテボホだった。バラカは手をあげてジャヒに挨拶すると、世間話でもするように尋ねた。
「どこへ行こうってんだ、ジャヒ?」
「バラカ…、テボホ…。どうしたんだ、お前たち?」
バラカとテボホは顔を見合わせて呆れたようなジェスチャーをしながらも、二人は微笑んでいた。
「それはこっちのセリフだよ、ジャヒ。なんで村を出て行こうとしてるんだ?」
「なんでって……昨日のフィティナとのやり取りを聞いていただろ?…そういうことさ」
「…でも、フィティナは満足して帰ったんだろ?だったらもう、その話はいいじゃないか」
バラカとテボホは交互にジャヒを引き留めようとする。バラカは続けて言った。
「それに、ジャヒが村に残った方が、ルジナが倒されたって黒の信徒たちは確信しそうじゃないか?」
「……なるほど。そうやって慢心させて油断させておくわけか。一理あるな…」
「だろ?きっと悠ならそんな風に考えるんじゃないかと思ったんだ」
バラカは笑った。テボホもつられて笑っている。
「……なんだか、さっきまでの決意がどうでもよくなっちまったなあ。それじゃあ、村に残るとするか」
おどけたような表情でジャヒが言うと、二人は頷き、お互いの肩を叩きあいながら村の中へと引き返していくのだった。
――同じサバンナの朝陽を見ながら、悠は思いっきり伸びをしていた。
サバンナの朝は、いつも音から始まる。
遠くでシマウマの群れが草を踏みしめる音、風が背の高い草を揺らすざわめき、どこかで水を求めて移動する動物たちの気配。それらが重なり合いながら、大地が目覚めていく。
「んっーー!」
朝の爽やかな空気が肺一杯に広がる。何度迎えても、このサバンナの朝の空気は最高であった。途中、少し急いだこともあって、今日中にはルジナの村へ到着する予定だった。この視線の先に、ルジナの村はある。
(昨夜、ここでシオンの精神の翼でルジナの様子を見ようと思ったけど、ダメだった…。果たして今日、どのくらいの距離でルジナの様子が見えるようになるか……細かく試してみるとしよう)
「さて、出発しよう。行こう、サリ!」
「うん、ユウ!」
悠はサリの方へ手を伸ばし、二人は自然に手を繋いでいた。朝露に濡れた草の間をかき分けるように歩く。足裏に伝わる土の感触は、微かに湿り気を帯びていながらも、大地は力強く二人の歩みを受け止めている。
「今日もいい天気ね」
サリが空を見上げながら言った。その横顔に、朝の光が柔らかく当たっている。低い朝陽は二人の影を長く伸ばし、その後ろに、大きなリンバの影があった。ロボの銀色の毛並みが朝の光を受けて、いつもの銀色ではなく白金色に輝いていた。肩のシオンは、小さな体を草原を吹き抜ける優しいそよ風に向けながら、飛んでいるかのように羽を微かに広げていた。
「うん。いい一日になりそうだ!」
雄大なサバンナの風景を見つめる悠の中で、確実に何かが変わっていた。一度目にそれを感じたのは、初めてクレアとこのサバンナの風景と夜空に広がる満天の星空を見た時だった。そして今……ようやく悠の中で、あの途方もなく壮大で、昔の人の空想がそのまま現実になったかのような不可思議な景色――マジマクウの光景を、胸の中で受け止められるようになっていた。
「なんだか、悠の目、変わったね」
サリが微笑みかけながら言った。今の悠の感情を敏感に察知したのかもしれない。そういうサリの目の中にも、悠は自分と同じものを感じていた。
「そう…かもね。マジマクウ……。あんな景色を見てしまったら、今ままでと同じ自分ではいられない…そんな感じなんだ」
「うん、わかる…。私もおじじに初めて連れてきてもらった時はまだ子供だったけれど、衝撃を受けた覚えがあるわ。私が、より繊細な音や振動に気づくようになったのも、その経験の後からだったの。悠がこの世界に現れたときに、不思議な振動を感じたのも、きっとその経験のお陰だったのかもしれないね」
「……わかるよ。僕もあの光景を見てから、なんだかふっと心が透き通って透明になっている感じがする瞬間があるんだ。まるで自分がこの世界の一部になってしまったみたいな」
二人はお互いの感じた感覚を想像しあうかのように、見つめあった。人生観が変わる……それだけのことで多くの変化が現れたり、人として一気に成長したりすることがあるが、今の二人がまさにそれであった。わずか14歳の少年・少女の目は、まるで賢者のような深い哲学者の光を湛えているかのようだった。
「ふふ…それはさておき、そろそろシオンの『精神の翼』の能力を確認しておきたいんだ。ここで少し休んでもいいかな?」
「ええ、もちろんよ、ユウ。今度こそ、ルジナの様子がわかるかしらね?」
悠がサリに声をかけると、シオンも慣れたもので、悠が肩に手を伸ばすまでもなく自分から悠の掌に乗った。飛ぶことは出来ないまでも、悠が差し出した掌へ向かって、肩から滑空するように飛び乗ることは出来る。ユウとの連携はますます無駄のないスムーズなものへと変わっていた。
「ようし、シオン。ルジナの様子を見てきてくれ」
悠とシオンは同時に目をつぶった。それと同時に、悠の頭の中に鮮明な映像が浮かんだ。ルジナだ!ようやくルジナの映像が見えたことで悠はすぐにおおよその距離を頭の中で計算したが、すぐに違和感に気づいた。…こんな時間だというのにルジナは横たわったままだった。悠の心臓が言いようのない不安にドキッと高鳴った。
「シオン!」
悠は、シオンを呼び戻すと、同時に目を開いた。そのただならぬ声の調子に、サリが心配そうに声をかけた。
「何かあったの、ユウ?」
「うん…。ルジナの様子がおかしいんだ。こんな時間だというのに横たわったままだ」
「そんなことってあるかしら……。何かあったに違いないわ」
「ああ、僕もそう思う。サリ、急ぎ足になっても構わないかい?」
「ええ、急ぎましょう!」
二人は目で頷きあうと、ダッシュで駆けだした。駆け出すとすぐにサリが遅れ始めるが、それをリンバがひょいっと抱え上げる。
「ありがとう、リンバ!」
サリは、リンバの肩に乗りながらリンバの頭を撫でた。久しぶりに感じるサリが肩に乗った感覚に、リンバはいかにも嬉しそうだった。
「ふふっ、張り切っているのね、リンバ。このまま、ルジナの村までお願いね!」
「ウゴッ!!!」
「キィキィキィキィッ!」
「あはっ、シオンも喜んでいるね!このスピードで疾駆るのは久しぶりだもんね。さあ、このまま急ぐよ!」
悠とサリの手は離れてしまったが、二人の気持ちは、まるで手を繋いだままであるかのように繋がっていた。絶対的なお互いへの信頼と共に、久しぶりに感じる疾走感の中で、二人の心が躍っているかのように表情は輝いていた。




