第七章 ~月と太陽と、もう一つの世界の果て~(一)
――世界の果て。
悠は、『世界の果てが大滝である』ということをサリから聞いたとき、中世の人々が想像で描いたという絵を思い出していた。名前こそ知らなかったが、悠が頭に描いていたのは、天動説と結びついた「地上平面説」の絵だった。
(世界の端から水が落ちたらすぐに枯渇してしまうじゃないか…)
そんな風に思っていた。
だが……実際に自分の目で見たそれは、想像を遥かに超える迫力と壮大さに満ちたものだった。その圧倒的な姿と感動の前には、理屈も何もかも超えて、悠はただただ言葉を失って呆然と立ち尽くした。
ある意味、そんな神聖かつ神秘的な経験を得たことで、悠の中で一つはっきりしたことがあった。それは、この世界は「閉じられた平らな世界」であるということ――。
悠は星空を見上げながら、あの圧倒的な光景の余韻を未だに引きずっていた。
昼間、サリが言った一言が印象的だった。
「言葉を失ってしまう気持ちはよくわかるわ……ユウ。私も初めて見たときはそうだった」
いつもなら、サリとは一緒に会話をしながら楽しく旅をしている悠も、今日ばかりは何か話そうという気持ちにすらなれなかった。サリもまた自分の経験として悠の心境が痛いほど理解できた。だからこそ、あえて言葉は交わさず、ただ握った手に気持ちを込めて、悠の傍らに寄り添い続けた。
「……ありがとう、サリ。ようやく落ち着いてきたよ。魂が体に戻ってきたような気分だ」
夜、これから休もうという時間になって、ようやく悠はそれだけをサリに伝えた。それでもいざ横になると、やはり自分の中で興奮が収まっていないのがよく分かった。悠は、意識的にこれからのことを考えようとした。差し当たっては明日のスケジュールの確認からだ。
(ルジナの村までは、普通に歩いて4日の距離か……、久しぶりだなあ。クレアと一緒に過ごした谷はどうなっているか………ク…レア!?)
「どうしたの、ユウ?寝ないの?」
横で体を休めていたサリが、気配を察知したのか眠たげな声をあげた。
「…あ…うん。ちょっと、大事なことを忘れていたことに気づいたんだ。少し散歩してくるから、良かったら先に休んでて。おやすみ、サリ」
悠はそっと起き上がりながら、小さな声でサリに語りかけた。そして完全に足音と気配を消し、ロボの元へと近寄っていった。
「シオン、僕と一緒に来てくれるかい?」
ロボの背中で丸まりながら目をつぶっていたシオンは、パッと目を開けて顔をあげると、チョンチョンと跳ねながら悠の腕を伝っていつもの定位置に収まった。肩に乗ると頭をスリスリと悠の頬に撫でつけるようにしながら甘えている。
(こんな大事なことを忘れていただなんて……)
これから行おうとしていることは、別にサリと一緒に試すのでも良かったのだが、悠は何となく気が引けて、一人で確かめたかった。
(クレア……)
夜にシオンの視界共有を試す。それは『テボホの様子を視界共有したときに、画面が見づらかった理由を検証する』という課題であった。そのついでにクレアの様子を確認しよう、ずっとそう思っていたのに、クレアのことを忘れてしまうなんて、以前の自分からは考えられなかった。
「シオン、クレアの様子を見てきてくれるかい?」
悠があらかじめ掌に載せた状態でシオンに尋ねると、ほどなくしてシオンは眠るように動かなくなった。だが、頭の中の画像は真っ暗なままで、何も映し出されはしなかった。
(やはり距離の問題があるのか……シオンの視覚共有…まだまだ能力の全貌が掴めないな)
「……シオン、戻ってきていいよ」
悠が声をかけると、シオンは体をピクピクさせながらパッと起き上がった。
「ありがとう、シオン。やっぱり遠いみたいだね」
悠は労うように、指でシオンの頭を撫でながら感謝の言葉を伝えた。
(考えてみれば、水飲み場でテボホの映像が見えづらかった時、そのあとすぐに試せばよかったんだ。ジャヒとの戦闘があったとはいえ、そのくらいの時間はいくらでも作れたのに……)
理由はハッキリしていた。サリのことで頭がいっぱいだったのだ。
「サリ?……あ、そうか。サリで試してみればいいんだ。シオン、もう一度お願いできるかい?」
シオンは頷くと、またしても眠るように動かなくなる。その瞬間、サリの可愛らしい寝顔がハッキリくっきりと悠の頭の中に飛び込んできた。
「うわっ…と!し、シオン、戻って!!」
悠が慌てた様子でシオンを呼び戻すと、今までと違って体をピクピク動かすこともなく、すっと目を開いていつもの状態に戻った。
「あれ、シオン……もしかして、慣れてきた?」
シオンに尋ねると、シオンは目を閉じながら頷いて答える。
「そうなんだね!…そう言えば、ジャヒは能力に『獅子吼』って名前をつけてたなあ。シオンのこの能力にも名前がついていた方が便利かもしれないね」
「キィッ」
シオンの声は明らかに嬉しそうだった。悠はそんなシオンを見ながら、早速名前を考え始めた。
「魂が抜ける感じだから、魂の飛翔……いや、なんだか違うな。もっと……シオンのイメージに近いもの……翼……魂の翼…ううん、これじゃちょっと雰囲気が重すぎる。……精神……そうだ、精神の翼!どうだい?」
「キィキィッ!!」
「良かった、気に入ってくれたみたいだね!…それじゃあ、これからしばらくの間、『精神の翼』の能力を色々テストしようと思うんだけど、付き合ってくれるかい?」
シオンは、当然というように頷いた。
「ありがとう、シオン。……とりあえず今回のテストでわかったことが三つある。一つは距離に限界があるということ。二つ。夜間でも問題なく見えるということ。三つめは……」
ここで悠はいったん言葉を切って、その時の様子を思い出すようにしながら、慎重に言葉を選びながら続けた。
「……おそらく画質と距離は関係ないと思うんだよ。というのは、初めてクレアの映像を見たときは、僕たちとテボホの時以上に距離が離れていたにもかかわらず、はっきり見えていたんだ。昼と夜の画質に問題がないなら、きっとそれ以外の要因があるってことだ。……シオンも何かわかったら教えておくれ」
「キィッ!」
(…それにしても……)
悠は、星空を見上げた。
(クレアとレイラはどうしてるかなあ……。こんなに長い時間離れていたこと、なかったもんなあ……)
悠は、初めてクレアにこの世界の星空を見せてもらった時のことを思い出していた。レイラの背中を枕にしながら、すぐ近くで横になりながら夜空を見上げたあの日……。
(思えば、あの日からクレアは僕にとって特別な存在になっていたのかもしれない…)
「…ん?」
脚に温かい毛並みの感覚を感じると、珍しく、足元にはロボが体を摺り寄せていた。
「ロボ……」
悠が、微笑みながら足元のロボを見ると、白銀のロボの姿に黒いレイラの姿が重なった。
(訓練や食料を採取しに行った後……いつもレイラが、甘えるようにこんな風に体を寄せていた……)
そしてレイラと一緒に谷へ戻れば、クレアが待っていて、
「…ユウ」
と、静かで微かな笑みを浮かべながら、自分の名前を呼んでくれた……。
夜空には、今にも消えそうなくらい細い弧を描いた三日月が、ひっそりと浮かんでいた。なぜかその姿に、クレアが重なった。
(……なんだろう、この…心に感じる寂しさは……)
クレアと別れてからまだ一週間も経っていないというのに、このわずかな期間に起きた心の変化に、悠は自分の気持ちをどうして良いのかわからなくなった。クレアに対する憧れと、サリとの間に感じる温かな愛情。今、悠の心は、二つの想いの間で揺れ動いていた。
「ロボ……もう少し、僕に付き合ってくれるかい?」
ロボが土の上に伏せるようにすると、悠もその隣に腰を下ろして、ロボの背中を撫でながら想いを巡らせていた。
(僕はなぜ、あの微笑みを忘れていたんだろう……)
悠の心の中に、ルジナの村にある谷で、クレアと二人で過ごした二年間のことが鮮やかに蘇っていた。証人として、身を隠すようにしながら、この世界で生き抜くための力を磨いてきた、あの、かけがえのない想い出が詰まった日々……。
細い三日月は、時間と共にほんの僅かに位置を変え続けながらも、未だ空に浮かんでいる。
太陽のようなサリの笑顔と、クレアの不器用そうな小さな微笑み。そこには優劣もなければ、勝ち負けもない。一つ一つが悠の大切な宝物であった。
「……だいぶ時間が過ぎちゃった。サリが待っているだろうな」
先ほどシオンとの視覚共有で、サリが寝ているのはわかっている。でも、眠りながら自分のことを待っているのも悠にはわかっていた。
「行こうか、ロボ」
悠は立ち上がり、サリの元へと戻っていく。リンバがふと気づいたように片目だけ開けて悠を一瞬見たと思うと、またすぐに目を閉じた。なぜかその仕草は、帰りを待っていたリンバが悠を見てお帰りと微笑んでくれたようにも感じられた。
悠はサリを起こさないように、そっとその隣に体を横たえた。リンバの大きな体が、悠の身体を優しく受け止めた。
(普通に歩けば、ルジナの村へはあと3日。……出来れば、少し急ぎたいな。テボホ達がどうしているかも気になるし…ジャヒは一緒なのかな?……ルジナは元気だろうか……)
ルジナたちのことを思い出しながら見上げる空は、どこまでも深遠で…たくさんの小さな星たちが瞬いていた。遠い空の上から、リンバと共に眠るサリと悠の姿を見守るかのように――。
悠とサリがルジナの村を目指している頃――。
ルジナの村を、松明を持った男たちが取り囲んでいた。その真ん中には大蛇を従えた聖女・フィティナが腕組みしながら入り口の正面に立って、ルジナと向かい合っている。周りの男たちは、黒の信徒だった。
「こんな時間に何の用です?」
ルジナが朗々とした声で尋ねた。その姿は静かな威厳を湛えながらも、見ているものに安心や信頼といった温かな感情を抱かせる不思議なオーラを放っていた。
フィティナの顔は、周りの男たちが持った松明の明かりに照らされ、うっすらと浮かべた笑いがいつも以上に不気味な雰囲気に映った。ついてきた信徒たちや、彼らを警戒する村の男たちの視線を意識しているかのように、フィティナはあざといさりげなさで、魅惑的に見えるようなポーズを作りながら、名乗った。
「私は、黒の信徒たちの聖女、フィティナ。……裏切者たちがこの村に逃げ込んだという情報を得て、引き渡しを要求しに来たの。貴女が植物のホダムを持つというルジナね。私たち暗いので松明を点けているから……貴女の植物のホダムで襲われたら、うっかり松明を落としちゃうかもしれないわね……ウフフッ」
フィティナは、いかにも可笑しそうに笑った。その様子は、まるで恋人の冗談に笑顔をほころばせた様な無邪気さと艶やかさで、それが逆に狂気を感じさせた。ルジナはフィティナの言葉を聞くと、さすがに表情を曇らせた。
「畏れを知らぬ者よ……。この神聖な大地を狂気の火で燃やし尽くそうというのか……」
「心外ね。それは、あなた次第だわ、ルジナ。私たちは正当な権利を主張しているだけよ。裏切者を差し出してくれたら、私たちはおとなしく引き上げるわ。ただ、それだけのこと。そうでしょう?」
フィティナの声は美しく蠱惑的で、男たちの耳にとても心地よく響いた。「なんだ…彼女の言うことはもっともだし、意外と話の分かる良い人じゃないか」思わず、そんな風に思ってしまいそうな、妖しい魅力に溢れていた。ルジナもまた傾聴するように、彼女の言葉を目を閉じて聞いていた。そして、目を開くと、彼女にこういったのである。
「……残念ですが…、私たちの村には裏切者など居りませんよ。皆、大切な仲間であり、私の家族です」
ルジナはきっぱりと言い放った。




