第四章 ~再会の響きと、残された道標~(二)
* * *
――あの日。
ゴンドランの音が、鬱蒼と深い森に満ちていた。
巨大なフタバガキの木々が天蓋のように枝を広げ、地上に届く光はわずかに木漏れ日だけだった。その薄明かりの中に、幾棟もの高床式の家屋が、まるで木の実がなるように木々の間に吊り下がっている。その真ん中にある広場に、村人たちが集まっていた。
幾重にも重なり合うゴングの響きが、大気をゆるやかに揺らし、木々の葉を震わせながら広がっていく。その音の重なりは耳に心地よく、その振動は全身の皮膚に染みこんでくるようだ。
12歳の少女・サリは目を閉じたまま、マレーバクの温かな体に身を預けていた。隣では長老のアディリが静かに座り、その皺の刻まれた手が、まるで祈りをあげるようにしながら天に向けられている。集まった村人たちも、それぞれに目を閉じたり、遠くを見つめたりしながら、ゴンドランの音の波の中に揺蕩っていた。
(……ああ、美しい響きだ)
それは誰の心の声だったか。それはモリト族にとって、森と自分たちが一体となる、大切な時間だった。
森では常に何かが鳴いていた。鳥の声、虫の声、遠くを流れる川のせせらぎ、風が葉を揺らす音。それらが渾然一体となって、森全体が生きて呼吸しているような感覚を生み出している。湿った空気には、腐葉土と花粉と、どこか甘い果実の香りが混じり合っていた。
(森のいい匂い…。この子はぜんぜん獣臭くない。ホダムってなんて不思議な生き物なんだろう)
サリは、マレーバクにもたれかかりながら背中を撫でた。
「テナンは優しい子…」
サリがテナンと呼んだマレーバクの体に顔を埋めると、ゴンドランの響きに重ね合わせるように、テナンが穏やかな低いうなり声をあげた。
その声を聞いた村人たちは、一斉に目を閉じると、その表情が一層穏やかになる。
(おじじのホダムは、戦わないホダム……。英雄ヘキマのホダムと比べるとすごく頼りないけど、この子はとてもいい匂いがするし、落ち着く声をしているの…)
ヘキマとは、モリト族の伝承に出てくる、スマトラ虎の守護獣を連れた戦士と言われる英雄だった。それと比べるまでもなく、主を守る守護獣がホダムということを考えると、アディリの戦わないホダムというのは例を見ないものだった。だが、サリはこのテナンがいかに素晴らしい能力を持っているかを知っていた。
「サリ、もしかしてお前はテナンの声が聞こえるのかい?」
ある日、おじじのアディリが驚いた顔をしながら聞いたのを覚えている。それは本来、人には聞こえない音らしかった。しかし、サリはテナンの声を子守唄代わりに育ったようなものだった。
その時のことを思い出しながら、サリはテナンの音なき声に耳を澄ませ、ゴンドランの音に重ね合わせていた。遠くを見つめる目が、うっすらと緑色の光を帯び始める。それはとても弱いものであったが、その様子はテナン(ホダム)の影響を何かしら受けていることを思わせた。
あらゆる偶然が必然のように揃った時、それは起こった。
森に広がっていくゴンドランの振動に、空から全く異質の振動がぶつかった。
(……!)
それは音ではない。もっと遠く、もっと深いところから来る歪んだ何か。
テナンがゆっくりと顔を起こし、ある方向を見つめた。アディリもまた、手を下ろしながら立ち上がり、同じ方向を見つめる。
(やっぱり、気のせいじゃない!)
「おじじ!この振動は、もしや…」
「うむ。若者を3人つけよう。お前が案内するんじゃ」
「うんっ!」
(あの後…、一緒に来た仲間は殺された。でも私は見つけた。証人を…)
今、彼女はリンバの背中に乗ってルジナの村へと向かっている。
(元気かな、あの子。ううん、その村にいるといいな。あなたに伝えたい事がある。お願い…無事でいて…)
「アディリ!…たった今、黒の信徒たちが大勢で、ダナ族の長老の一人、ルジナの村に向かっているのを発見しました!」
村の若者が、息せき切りながらおじじのアディリに報告してきたのは、昨日のことだった。
「どうやら信徒たちは、証人を捉えるのだと、武器を携えて交戦をも辞さないようです!!」
「なんじゃと…。そうか…ルジナの村に……」
そう呟いたアディリの言葉に、即座に反応したのはサリだった。
「えっ!?おじじっ!――あの白い肌のお姉さんはルジナの村に隠れてたの!?」
「…どうやら、そういうことらしい。元の世界へ戻るならば、てっきりルガ族のもとへ向かったと思っておったが…」
サリが立ち上がり叫んだ。サリの胸の中に、あの時怯えていた少年の姿が浮かんだ。
「おじじ、私、行ってくるよ。放ってなんか置けない!」
「黒の信徒たちを見かけたのは昨日だそうだ。今から行っても間に合うまい…」
「大丈夫だよ、おじじ。…リンバ!」
サリが胸を張りながら、こぶしを握って大丈夫というようにポーズをとると、後ろに、リンバの巨体が音もなく降ってきた。リンバの知性に溢れる瞳が、まるで「サリは自分が守る」と告げているように見えた。
「私にはリンバがいるし、大の大人たちが数十人でかかってきても、私にはかなわないってわかっているでしょ!」
「力試しと、本気で殺しに来る者とでは違うよ、サリ。くれぐれも油断してはならないし、ホダムの力を過信してはいかん。英雄ヘキマですら、最後はつまらぬ相手に殺されてしまったことを忘れてはならぬ」
アディリの諭すような言葉に、サリの表情が引き締まる。
「わかったわ、おじじ。油断もしないし、過信もしない。だから行っていいでしょう?」
アディリは、しばらく黙ってサリを見つめた。その黒い瞳の奥に、孫娘への深い愛情と、長老としての静かな確信が宿っている。
「…行きなさい。お前の足なら、まだ間に合う」
サリはアディリの手を一瞬だけ、ぎゅっと握った。それだけで十分だった。
「いってきます、おじじ」
リンバの背に飛び乗ったサリは、振り返ることなく森の奥へと駆け出した。木々の間を縫うように進む巨大なオランウータンの背中で、サリは夜空を見上げた。
(待っていて。必ず見つけるから)
星が、森の葉の隙間からちらちらと瞬いていた。再び、あの少年の顔が浮かぶ。
サリの胸が、なぜか熱く高鳴ってくるのを感じていた。
* * *
「……あなたに、伝えなければならないことがあるの。あなたのお父さんはルガ族のもとへ向かったわ」
「なんだって!?僕の父さんに会ったのかい?」
それは青天の霹靂のような衝撃であった。悠はこの思いがけない展開に、ある言葉を思い出していた。
(――時が至れば、自ずと道は開ける――。大和流柔術の先生が良く言っていた言葉だ…)
サリは、そう言い終えると、ようやく伝えるべき人に伝えることが出来たというように、ほうっと息を吐いた。
「サリ、ルガ族のところに行くにはどうしたらいいんだい!?父さんはいつ、君たちの村を出発したの!?」
「待って、待って、ユウ!焦る気持ちはわかるけど、安心して!」
矢継ぎ早に質問してくる悠を、サリが慌てたように制する。そして、いかにも彼なら大丈夫と確信しているように、真っすぐに悠の目を見つめながら言った。
「一刻も早くお父さんに会って無事を確認したい気持ちはわかるけど、悠のお父さんだって、転んでもただで起きるような人じゃないでしょう?」
「…っ!?…それは…」
「面白い人ね、ユウのお父さんって。ふふっ」
その言葉がすべてを表していた。そうだ…サリが会ったのはまさしく父さんだ!…悠は、ふっと憑き物が落ちたように気持ちが静まるのを覚えた。
(…父さんはどこか飄々として。こんな風にみんなを和ませてしまうんだ…)
悠はいつの間にか笑みを浮かべていた。サリはそんな悠の表情変化から心の内を察すると、お腹を押さえながら言った。
「ねえ、ユウ。あれ、早く食べようよ。私、昨日から何も食べてなくて、お腹ペコペコなんだ」
「そうね。さあ、ユウ。ご飯にしましょう?もちろん、サリも一緒にね」
「やったーーっ!!すっごく美味しそう!…どうやって作ったのかなあ?」
サリが興味津々で料理を覗き込むと、悠とクレアが説明しながら葉っぱのお皿にサリの分をよそった。レイラはじっと地面に伏せたまま、まるでクレアに弟と妹が出来たみたいだとでもいうように、優しい目で三人を見つめている。
「良かったわね、ユウ」
クレアが、一緒に食事の準備をしている悠にそっと声をかけた。その青い瞳から、悠に突然舞い込んできた知らせを心から喜んでいるのが伝わってくる。
「ありがとう、クレア」
悠はこれ以上ないくらいに胸がいっぱいだった。クレアとの旅、サリとの再会…そして父親の消息がわかったこと。そして、とどめにクレアの手料理!!悠の旅立ちの一日目はこれ以上ないというくらい順風満帆で、幸せに溢れていた。
クレアの作ってくれた料理は、肉汁と根菜類の味の馴染み具合に塩加減もまた抜群で、そこに香草の香りが味わいを何重にも深めている。さらに極めつけは、食材を包んでいた葉っぱの香りが、ほんのりと清涼感を与えていた。まさに大地の恵みがふんだんに詰まった味わいだ。
サリが語ってくれた悠の父親のエピソードに、悠とサリは笑い転げた。その様子を眺めているクレアの瞳は、どこか夢見心地だ。きっと、自分にこんな日が…こんな時間が訪れようとは思っていなかったのかもしれない。
夜更けの静けさの中に、悠とサリの軽い寝息が聞こえる。クレアは星を見上げながら、静かに目を閉じた。




