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第8話 男子だけの秘密

取っ手を下げた。


扉が開く。


暗い。


「ちょっと待って」


理沙が壁を探る。


「電気」


ぱち、と音がした。


天井の蛍光灯が一度ちらつき、少し遅れて点いた。


古い洗面台。

くもった鏡。

奥に三つの個室。


男子トイレだった。


当たり前だけど。


「入るの?」


彩香が言った。


「ここまで来たし」


私は答えた。


「でも、男子トイレだよ」

「将来、お掃除のおばちゃんになったら普通に入るかも」


三人が私を見た。


「それ?」


理沙が言った。


「何が?」

「今の勇気の出し方」


「使えるものは使う」

「由佳、お掃除のおばちゃんになるの?」


彩香が聞く。


「将来はまだ決めてない」

「ここで進路の話に戻らないで」


真帆が私の背中を押した。


「早く入って」

「真帆が押すんだ」


「廊下にいる方が見つかる」


理沙に急かされ、私が最初に入った。


何も起きなかった。


便器があるだけだった。


真帆、彩香、理沙も続く。


理沙が扉を閉める。


「本当に入っちゃった」


彩香が小声で言った。


「もう入ってる」


真帆が答える。


「秘密、どこ?」


四人で見回した。


鏡。

洗面台。

壁。

天井。


「隠し扉?」


私が壁を押す。


「ない」


理沙が言う。


「鏡の裏?」


彩香が覗く。


「触らないで」


真帆が止めた。


「触ってない」

「個室」


理沙が言った。


全員が奥を見る。


三つの扉。


「由佳」

「また私?」


「ここまで来て引けないと言った人」

「便利に使わないで」


一番手前。

空。


真ん中。

空。


奥。


私は取っ手に手をかけた。


「開けるよ」

「早く」


「真帆、急に強いね」

「早く出たい」


扉を引いた。


裏側に、黒い線がびっしり書かれていた。


四人とも止まった。


文字。

丸。

長い線。

小さな記号。


上から下まで、隙間なく並んでいる。


彩香が私の腕をつかむ。


「何これ」


真帆が顔を近づけた。


「お経?」

「男子トイレに?」


私は一歩下がった。


「呪い?」


彩香が言う。


「閉めて」


真帆が言う。


「待って」


理沙だけが前へ出た。


「字がある」

「お経も字だよ」


「名前」

「呪われた人の?」


「違う」


理沙が眼鏡を押し上げる。


「よく見て」


私たちも近づいた。


線。

傘。

左右に名前。


「相合傘だ」


私が言った。


一気に力が抜けた。


「何だ」


彩香が腕を離す。


「びっくりした」


真帆も息を吐いた。


扉の裏には、相合傘が何十個も並んでいた。


名字だけ。

下の名前だけ。

消えかけたもの。

線の濃いもの。

傘の上に、小さなハートがついたもの。


「可愛い」


彩香が言った。


「相手の名前がびっしり」


私も扉を見上げる。


『山田 美咲』

『大輔 加奈』

『木村 亜紀』

『佐藤 麻衣』


「願掛け?」


彩香が聞いた。


「好きな相手との相合傘を書いて、かなうようにってこと?」

「ハートがあるものと、ないものがある」


理沙が見比べる。


「かなったらハート?」

「そう考えるのが自然」


「これが本当のトイレの神様ってやつ?」


私が言った。


三人がこちらを見る。


「何それ」


彩香が言った。


「知らない」

「自分で言ったんでしょ」


「でも、神社は惜しかったね」


私は扉を見た。


「神社じゃなくて男子トイレだったけど、願掛けは合ってた」

「かなり違う」


理沙が言う。


「でも、惜しい」


真帆が言った。


「真帆まで」


相合傘は、見れば見るほど普通だった。


好きな女子との名前を書く。


かなったらハートを足す。


たぶん、それだけ。


「でも、本人が書いたとすると」


理沙が言った。


「好きな相手がばれる」

「そっか」


彩香が扉を見る。


「だから男子だけの秘密なんだ」

「なるほど」


私もうなずいた。


「誰と誰が好きとか、全部分かっちゃうもんね」

「広まったら困る」


真帆が言った。


「意外とちゃんと秘密だった」

「意外とは余計」


理沙が言う。


私たちはもう一度、扉いっぱいの相合傘を見た。


可愛い。


でも、普通。


男子だけの秘密と聞いて、少し期待しすぎていた。


「まあ、現実ってこんなもんよね」


彩香が肩を落とした。


「十分可愛いけど」


真帆が言う。


「男子もこういうことするんだ」

「するんだね」


私は少し笑った。


理沙はまだ、一つずつ名前を見ている。


「ねえ」


彩香が言う。


「何?」

「みんな、自分の名前探してない?」


私たちは黙った。


「探してない」


理沙が言った。


「今、一瞬止まったよね」

「確認しただけ」


「何を?」

「知っている名字があるか」


「それを探してるって言うんじゃない?」


真帆が小さく言った。


「ばれた?」


私が答える。


「由佳も?」

「まあ、私に片思いするような男子は思いつかないけど」


「それ、自分で言って悲しくない?」


彩香が聞く。


「少し」


真帆が相合傘を目で追う。


「私はない」

「真帆はありそう」


私が言う。


「ない」

「言い切るね」


「話したことある男子、少ないから」

「知らないところで好きかもしれないじゃん」


「怖い」

「何で?」


「知らない人に書かれるのは怖い」

「確かに」


彩香が下の方へしゃがんだ。


「新しいの、こっちじゃない?」


線が濃い。


文字もはっきりしている。


私たちも腰をかがめた。


『浩二 麻衣』

『田辺 加奈』


『山本健太 鈴木彩香』


「これ、彩香じゃん」


私が言った。


「え?」


彩香が顔を寄せる。


「まじ?」


真帆も見る。


理沙が名前を読む。


「山本健太。鈴木彩香」


傘の上には、ハートがあった。


四人とも黙った。


彩香だけが動かなかった。


「ハート」


私が言う。


「つまり、成功はハート?」


彩香の声が小さくなる。


「健太も願掛けに来てたのか」


私はもう一度、名前を見る。


「なるほど」

「何が、なるほどなの」


彩香が言った。


「意味深」

「ちょっとやめてよ」


「でも、そうなんだ……」


彩香は相合傘を見たまま、少しだけ口元を緩めた。


「嬉しい?」


私が聞く。


「別に」

「顔」


「見ないで」

「嬉しいんだ」


「違うって」

「ハートついてるよ」


「見れば分かる!」


声が大きくなり、理沙が口元へ指を立てた。


「静かに」

「ごめん」


彩香はまだ、名前を見ていた。


「健太、自分で書いたのかな」

「本人とは限らない」


理沙が言う。


「今それ言う?」

「可能性の話」


「でも、これ」


彩香がハートを指さす。


「かなったから、つけたってことだよね」

「そう考えるのが自然」


「そっか」


彩香は小さく笑った。


さっきまで肩を落としていたのに、急に機嫌が直っている。


「よかったね」


私が言う。


「何が?」

「成功して」


「うるさい」


彩香は笑った。


その隣に、もう一つ相合傘があった。


小さい。


けれど、線ははっきりしている。


片側に、『藤田直人』。

反対側に、『中村祐介』。


傘の上には、ハート。


私は最初、意味が分からなかった。


名前を読む。


もう一度読む。


「やばい」


私が言った。


「何?」


彩香が見る。


次の瞬間、目を見開いた。


「やばい、これ!」


真帆がしゃがみ込む。


「藤田先輩」


「中村先輩」


理沙が言った。


「男と男」

「ハートついてる!」


彩香が私の肩をつかむ。


「見えてる!」

「成功してる!」


「待って。じゃあ、この二人って――」

「かなったの!?」


「声!」


理沙が止める。


「だって、やばい!」

「本人が書いたとは限らない」


「今は黙って!」


彩香がその場で崩れた。


「無理、好き!」

「横転しないで」


真帆が支える。


「する!」

「ここ男子トイレ」


「それどころじゃない!」


私は相合傘へ顔を近づけた。


藤田直人。


中村祐介。


ハート。


間違いない。


「二人とも人気だったよね」

「女子に」


理沙が言う。


「なのに、ここで?」


彩香が言う。


「どっちが書いたの?」

「一緒に来た?」


「どっちが先に好きになった?」

「情報が足りない」


理沙が言う。


「でも、可能性はある」


三人で理沙を見る。


「今、言った?」


彩香が聞く。


「可能性はあると言っただけ」

「落ちたね」


「落ちてない」

「顔が落ちてる」


理沙は眼鏡を押し上げた。


耳が赤かった。


真帆は相合傘を見たまま言った。


「……それ、いい」

「いいよね!?」


彩香が真帆の腕をつかむ。


「うん」

「描いて」


「描かない」

「何で!」


「これは描かない」

「名前変えればいいじゃん」


私が言う。


「由佳まで」

「外見も変える」


「話も変える」

「それなら別の二人」


「そうだけど」

「ここにあるから、いい」


真帆は相合傘を見た。


私たちは黙った。


本当に見てはいけないものを見た気がした。


「これ、見ちゃ悪いんじゃない?」


彩香が小さく言った。


「ここまで来た勇者の褒美だと思えばいいんじゃない?」


私は答えた。


「勇者?」


理沙が言う。


「男子トイレへ入った勇者」


彩香が吹き出した。


「何それ」


真帆も笑った。


「まあ、秘密にすればいいか」


彩香が言った。


「誰にも言わない」


理沙がすぐに返す。


「うん」


それで話は決まった。


でも、同時に。


最高だった。


誰にも知られていない。


人気者の先輩二人。

男子トイレの奥。

相合傘。

ハート。


「ありがとう」


私が言った。


「誰に?」


理沙が聞く。


「神様」

「ここ男子トイレ」


「トイレの神様」

「何それ」


「今度こそ本物」

「違う」


彩香が両手を合わせた。


「でも、ありがとう」

「彩香まで」


「だって、こんなの見せてもらえるなんて」

「見せてもらったわけではない」


「そこは今いいの!」


廊下から、足音が聞こえた。


四人とも固まった。


近い。


今度は本当に近い。


「誰か来る」


理沙が立ち上がる。


「やばい!」

「閉めて!」


真帆が個室の扉を閉める。


相合傘が消えた。


「出るよ!」

「待って!」


彩香が扉へ振り返る。


「何?」

「もう一回見たい!」


「無理!」


私たちは男子トイレを飛び出した。


廊下の奥に、人影が見えた。


「走って!」


理沙が言った。


四人で走った。


旧技術室を過ぎる。


角を曲がる。


床が鳴る。


鞄が跳ねる。


誰かが後ろで笑った。


怖いのか、嬉しいのか、自分でも分からなかった。


明るい廊下まで来て、ようやく止まった。


全員、息を切らしている。


彩香が壁へ手をついた。


「見た?」

「見た」


私は答えた。


「本当に?」

「四人とも見た」


真帆が言った。


「ハート」

「ついてた」


「男と男」

「だった」


「藤田先輩と中村先輩」

「言わない」


理沙がすぐに止めた。


「分かってる」


彩香は息を整えながら笑った。


「でも、行ってよかった!」

「うん」


私も笑った。


「本当に行ってよかった」


真帆が言った。


「ありがとう、由佳」

「何で私?」


「入るって言ったから」

「真帆も来てくれたじゃん」


「彩香も」

「理沙も」


三人を見る。


「みんな、ありがとう」


彩香が言った。


誰も笑わなかった。


そのときの私たちは、本気だった。


少し前まで、進路のことを考えていた。


受かるか分からないこと。

失敗できないこと。

好きなものを隠していること。

将来、何をしたいのか決まっていないこと。


どれも、今は少しだけ遠くなっていた。


「これがあれば、大丈夫な気がする」


彩香が言った。


「何が?」


理沙が聞く。


「これから嫌なことがあっても」


彩香は自分の胸を指した。


「今日のこと思い出したら、ちょっと元気出るじゃん」


私はうなずいた。


「四人で男子トイレ入ったこと?」

「そこだけ言わないでよ」


「でも、そうでしょ」

「相合傘まで入れて」


「ハートも」


真帆が言った。


「そう。ハートも」


彩香は嬉しそうに笑った。


「一生忘れないと思う」

「忘れない」


私も言った。


「絶対?」


理沙が聞く。


「絶対」

「何年たっても?」


「覚えてるよ」


真帆もうなずいた。


「私も」


理沙は少し考えた。


「私も、たぶん忘れない」

「たぶんじゃなくて」


彩香が言う。


「忘れない」


理沙が言い直した。


それだけで、私たちはまた笑った。


今日のことは、ずっと残る。


何かに迷ったとき。

うまくいかないとき。

一人でどうしようもなくなったとき。


あの暗い廊下を四人で歩いたことを思い出す。


男子二人に見つからないよう息を止めたこと。

帰ろうとしたのに、もう一度引き返したこと。

男子トイレの扉を開けたこと。

個室の裏に、ハートのついた相合傘を見つけたこと。


そうすれば、きっと何とかなる。


そのときの私たちは、本気でそう思っていた。


「宝物だね」


彩香が言った。


「持って帰ってないけど」


私が答える。


「ここにあるから」


真帆が胸へ手を当てた。


「そういうの、真帆が言うと格好いい」

「事実」


「理沙は?」


私が聞く。


理沙も胸へ手を当てる。


「情報として保存した」

「違う」


三人で言った。


理沙が少し笑う。


「でも、大事」

「うん」


「四人だけの宝物」


彩香が言った。


誰か一人でも帰っていたら、見られなかった。

誰か一人でも声を出していたら、終わっていた。

誰か一人でも、もういいと言っていたら、ここまで来なかった。


四人で来たから、見つけた。

四人で怖がったから、進めた。

四人で秘密にすると決めたから、持って帰れる。


「私たち、勝ち取ったんだね」


彩香が言った。


今度は、誰も何を、と聞かなかった。


全員、同じものを思い浮かべていた。


暗い男子トイレ。


個室の扉。

藤田直人。

中村祐介。

その上の、小さなハート。


「うん」


私が答えた。


「勝ち取った」


真帆も言った。


理沙もうなずいた。


私たちは顔を見合わせた。


これから先、何があっても。


今日のことだけは忘れない。


この秘密があれば、きっと大丈夫。


そう信じながら、私たちは旧校舎を走って帰った。


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