第7話 ここまで来て引けない
「右だと思う」
理沙が言った。
「さっき左って言わなかった?」
彩香が聞く。
「さっきは、ここに来る前」
「じゃあ今は?」
「右」
「自信ある?」
理沙は地図を見た。
「ある」
「どのくらい?」
「六割」
「低いよ」
「半分より高い」
「そういう問題じゃないでしょ」
廊下の右側は、左側より少しだけ明るかった。
それだけで、私たちは右を選んだ。
正しい方向かどうかより、暗くない方へ進みたかったのだと思う。
彩香が先頭へ出る。
その後ろに理沙、私、真帆が続いた。
真帆はまだ私の袖をつかんでいる。
私は彩香につかまれていた腕を、少しだけ動かした。
「もう離していい?」
彩香が自分の手を見る。
「あ、ごめん」
すぐに離した。
「痛かった?」
「少し」
「早く言ってよ」
「彩香も怖いのかなと思って」
「怖くないよ」
廊下の奥で、何かがきしんだ。
彩香の肩が跳ねた。
「今のは?」
「床」
理沙が言う。
「誰も歩いてないのに?」
「建物は音がする」
「本当に?」
「木は湿度で伸び縮みするから」
「理沙、詳しいね」
私が言った。
「一般常識」
理沙の歩く速さは、少しだけ上がっていた。
前方に、白い扉が見えた。
上の札には、かすれた文字が残っている。
「何かある」
彩香が近づいた。
「旧家庭科室」
理沙が読んだ。
扉の小窓から中を覗く。
長い調理台が何列か並び、端に流し台があった。
使われていない鍋やボウルが、棚の中で重なっている。
「ここ、さっき通った?」
私が聞く。
「通ってない」
真帆が答えた。
「じゃあ、こっち側に来たのは初めて?」
「たぶん」
理沙が地図を見る。
彩香が廊下の先を指さした。
「女子トイレあるよ」
教室から少し離れたところに、女子トイレの表示があった。
「旧家庭科室の近くには女子トイレ」
理沙が呟く。
「なら、旧技術室は反対側」
「やっぱり逆に来てる?」
彩香が聞いた。
「校舎全体の反対側という意味」
「遠い?」
「そこまでは」
「理沙の『そこまで』、信用できない」
「今度は間違えない」
理沙は地図を折り直した。
私は女子トイレと、旧家庭科室を見た。
調理や裁縫をする教室の近くには、女子トイレがある。
反対側の旧技術室にはない。
「だから女子は、旧技術室の方へ行かないんだ」
私が言った。
「用がないもの」
真帆が答える。
「授業で使わないなら、わざわざ校舎の端まで行かないよね」
彩香も納得した顔になる。
「それで男子だけの場所になったんだ」
「男子だけにしたのではなく、女子が来なかった可能性が高い」
理沙が訂正した。
「結果は同じじゃない?」
「意味は違う」
「どこが?」
「誰かが女子を追い出したわけではない」
「理沙、そこ大事なんだ」
「事実関係は大事」
理沙は地図を指でなぞった。
「戻る。途中の分かれ道を反対へ行けば、旧技術室側へ出るはず」
「さっきの暗い方?」
彩香が聞く。
「そう」
「別の道ない?」
「ない」
「本当に?」
「たぶん」
「また言った」
私たちは来た道を戻った。
さっきより、少しだけ足取りは軽かった。
場所を完全に見失っているわけではない。
旧家庭科室を見つけたことで、進むべき方向が分かった。
地図の上に自分たちの位置が戻っただけで、かなり安心した。
暗い廊下へ入り直す。
さっき落ちていたチョークは、そのまま床に転がっていた。
「誰も動かしてない」
彩香が言う。
「当然」
理沙が答える。
「誰かいたら動かすかもしれないでしょ」
「誰もいないから」
「じゃあ、さっき落ちたのは?」
「風」
「窓、閉まってるよ」
「前に開いていたとき、扉の上へ乗った」
「無理がない?」
「ない」
理沙は幽霊の存在を否定するためなら、ずいぶん前の風まで使うつもりらしかった。
分かれ道まで戻り、今度は左へ進んだ。
しばらく歩くと、窓の外に体育館の屋根が見えた。
遠くでボールの弾む音がする。
さっきまで何人もの声が聞こえていた校庭は、校舎の陰へ隠れていた。
こちら側の廊下には、掲示物がほとんどない。
教室の扉も、どれも閉まっている。
「女子が来ないの、分かる気がする」
彩香が声を落とした。
「何もない」
真帆が言う。
「男子は何しに来てたんだろう」
私が聞いた。
「技術の授業」
理沙が答える。
「そうじゃなくて、普段」
「普段は来ないんじゃない?」
「秘密の場所があるんでしょ」
「それを使う人だけ来る」
理沙の言い方で、急に現実味が増した。
誰も通らない廊下。
小さな窓。
奥にある男子トイレ。
普段は必要のない生徒が、目的を持ってここまで来る。
私たちは歩く速度を少し落とした。
「旧木工室」
彩香が教室札を読んだ。
「近いかも」
理沙が言う。
「何が?」
「技術関係の教室がまとまっているなら」
「今度こそ?」
「今度こそ」
少し先に、次の札が見えた。
「旧技術室」
真帆が言った。
その隣には、旧技術準備室。
ようやく見つけた。
「本当にあった」
彩香が言う。
「あるに決まってる」
理沙は答えたが、声は少し小さかった。
「男子トイレは?」
私たちは周囲を見た。
すぐ近くにはない。
旧技術室の先にも、廊下が続いている。
教室の奥へ回り込むように、角が一つあった。
「さらに奥?」
彩香が聞く。
「目立たない場所って言ってた」
「健太が?」
「旧技術室の近くってだけ」
「じゃあ、たぶんあっち」
私は角の先を指した。
誰もすぐには動かなかった。
ここまで来る間は、迷ったり、怖がったり、進路の話をしたりしていた。
目的の場所へ近づいた途端、急に声が出なくなった。
理沙が地図を畳む。
「行くよ」
今度は彩香が先頭ではなかった。
理沙が前を歩き、その後ろへ彩香が続く。
私と真帆は並んだ。
角を曲がる。
細い廊下の先に、男子トイレの表示があった。
****
彩香が息をのむ。
「本当にある」
「男子トイレはどこにでもあるよ」
私が言う。
「そういう意味じゃない」
表示の下には、古い木の扉がある。
ほかの教室より小さい。
少し奥まった場所にあり、旧技術室の前からは見えなかった。
「これは分からないね」
私が言った。
「女子は来ない」
真帆が答える。
理沙が一歩進んだ。
そのとき、中から声が聞こえた。
四人とも止まる。
男子の声だった。
一人ではない。
低くて、短い声。
何を言っているのかまでは分からない。
彩香が振り返り、片手を上げた。
静かに、という意味だった。
誰も声を出していない。
それでも全員、息まで止めそうになった。
「誰かいる」
彩香が、ほとんど口の形だけで言った。
理沙が周囲を見る。
隠れられそうな場所は少ない。
旧技術準備室の扉脇に、壁が少しへこんでいるところがあった。
私たちは急いでそこへ移動した。
****
四人で入るには狭い。
彩香の肩が私の背中へ当たり、真帆は私の腕へ両手を添えた。
理沙は一番外側で、廊下を見ている。
男子トイレの扉が動いた。
ぎい、と音が鳴る。
一人目の男子が出てきた。
制服姿だった。
顔はよく見えない。
続けて、もう一人出てくる。
二人とも、周囲を確かめるように左右を見た。
私たちは壁へ体を寄せた。
心臓の音が聞こえそうだった。
男子の一人が、何か小さく言った。
もう一人が急いで答える。
二人は、そそくさと廊下を走っていった。
こちらには気づかなかった。
足音が遠ざかる。
完全に聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。
最初に息を吐いたのは彩香だった。
「行った?」
「たぶん」
理沙が答える。
「顔、見えた?」
私が聞いた。
「見てない」
真帆が言う。
「私も」
「知ってる人だったらどうしよう」
彩香が小声で言った。
「分からない方がいい」
理沙は壁から離れた。
私たちも狭い場所から出る。
男子トイレの扉は閉まっている。
さっきまでと同じに見えた。
でも、もうただの古い男子トイレではなかった。
本当に、今も誰かが使っている。
「何してたんだろう」
彩香が言った。
誰も答えなかった。
男子二人が恋愛関係だったのか。
秘密を見に来ただけなのか。
何か別の用事だったのか。
分からない。
二人が一緒にいたというだけで、私たちの妄想はいくらでも広げられた。
普段なら、もう始まっていたと思う。
どちらが先に誘ったのか。
一人がもう一人を連れてきたのか。
何を話していたのか。
理沙なら、とっくに個室へ入れていた。
でも、そのときは誰も何も言わなかった。
現実の男子が、ほんの少し前までそこにいた。
そのことの方が怖かった。
「見つからなくてよかった」
真帆が言う。
「もし見つかってたら」
彩香が続ける。
「清掃です、で通ったかな」
「男子トイレの前で四人固まっていたら難しい」
理沙が答えた。
「健太のこと、分かるかもしれない」
彩香が言った。
「何が?」
「私たちがここを知ってるってなったら、誰から聞いたか考えるでしょ」
「彩香の彼氏」
「そう」
彩香の顔から、いつもの明るさが少し消えた。
「健太、男子たちに責められるかも」
理沙は男子トイレを見た。
「可能性はある」
「やっぱり、まずいよね」
真帆が言う。
誰も否定しなかった。
見たいだけだった。
秘密があると聞いて、面白そうだと思った。
男子が守っている理由までは、深く考えていなかった。
中身を言わない健太を、役に立たないと笑った。
でも、本当に男子たちがここを使い、誰にも見つからないよう気をつけているなら、私たちがやろうとしていることは、思っていたより勝手だった。
「また今度にしない?」
彩香が言った。
「今度ならいいの?」
理沙が聞く。
「今日は男子がいたから」
「次もいるかもしれない」
「じゃあ、やめる?」
真帆が私を見る。
私は答えられなかった。
男子トイレの扉は、数歩先にある。
開ければ中が見える。
けれど、今はその数歩が、さっきまでよりずっと遠かった。
「帰ろうか」
彩香が言った。
声は小さかった。
理沙もうなずく。
「一度戻った方がいい」
「私は中止を提案する」
「急に正式」
私が言ったが、誰も笑わなかった。
私たちは来た方向へ体を向けた。
理沙が先に一歩進む。
彩香も続く。
真帆は動かなかった。
私の隣にいる。
「真帆?」
「帰る?」
「みんなは」
「由佳は?」
私はもう一度、男子トイレを見た。
怖かった。
男子たちに見つかるのも怖い。
健太が責められるのも嫌だった。
中にあるものを見てしまうことも、急に重く思えた。
知らない方がいいことなのかもしれない。
それでも、見たかった。
ここまで来る間、何度も迷った。
古い廊下を歩いた。
怖い音に固まった。
真帆の美大の話をした。
彩香が普通の彼女を演じる話をした。
理沙の受験の話をした。
私の、何も決まっていない将来の話もした。
みんな、分からないまま進んできた。
目的は男子トイレだったけれど、それでも、ここまで来たことは本当だった。
「ここまで来て引けないよ」
自分で言ってから、声が少し震えていることに気づいた。
理沙と彩香が振り返る。
「由佳」
真帆が小さく呼ぶ。
「怖いけど」
私は続けた。
「見ても、絶対に誰にも言わない」
「それでいいの?」
理沙が聞いた。
「よくないかもしれない」
「じゃあ」
「でも、私は見たい」
言葉にすると、少しだけ楽になった。
正しいからではない。
立派だからでもない。
ただ、見たい。
私はそのためにここまで来た。
「男子たちが隠してることを?」
彩香が聞く。
「うん」
「健太に迷惑がかかるかもしれない」
「見つからないようにする」
「見つかったら?」
「そのときは」
私は考えた。
何も思いつかなかった。
「そのとき考える」
理沙が目を閉じた。
「由佳らしい」
「ごめん」
「褒めてない」
「分かってる」
真帆が私の袖を離した。
一歩前へ出る。
「私も行く」
「真帆」
「ここまで来たから」
「それだけ?」
真帆は男子トイレを見た。
「見たい」
短い返事だった。
彩香は廊下の向こうを一度見た。
男子二人が戻ってくる気配はない。
「ここで帰ったら、絶対後悔する」
そう言って、私たちの方へ戻った。
「でも、ここで見たことは誰にも言わない」
「うん」
「健太にも」
「言わない」
「お姉ちゃんにも」
「言わない」
理沙だけが、まだ少し離れたところにいた。
「理沙は?」
私が聞く。
「私は中止を提案した」
「聞いた」
「それでも、三人だけで入るのは危険」
「一緒に来るの?」
「監督が必要」
「清掃の?」
「全体の」
彩香が少し笑った。
「見たいんでしょ」
「確認したい」
「まだ言うんだ」
理沙は眼鏡を押し上げた。
それから、ほんの少しだけ視線をそらす。
「見たい」
初めて、そう認めた。
****
私たちは四人で男子トイレの前へ戻った。
扉は閉まっている。
向こうから声はしない。
私は取っ手へ手を伸ばした。
手のひらに汗をかいていた。
古い金属が冷たい。
「さあ、入るよ」
誰も返事をしなかった。
でも、三人とも私のすぐ後ろにいた。
私は一度、息を吸った。
「開けるよ」
取っ手を下げた。




