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第6話 旧校舎探検隊

扉の向こうは、思っていたより明るかった。


古い校舎だから、入った瞬間に真っ暗になるような気がしていた。けれど、廊下の窓から午後の日差しが入り、床へ細長い四角を作っている。


ただ、空気は違った。


いつもの校舎より少し湿っていて、木と埃の匂いがした。


理沙が扉を押さえ、私たちが中へ入る。


最後に手を離すと、扉がゆっくり戻った。


ぎい、と長い音が鳴る。


彩香が振り返った。


「今の何?」

「扉」


真帆が答える。


「分かってるよ」

「なら聞かなくていい」


「音が怖かったの!」

「まだ入ったばかり」


理沙はそう言いながら、扉が完全に閉まるまで見ていた。


怖くない人は、たぶんそこまで確認しない。


廊下の壁には、色の抜けた掲示物が残っていた。


文字が読めるものもあれば、画鋲の跡だけになっているものもある。教室の札は少し傾き、窓枠の塗装はところどころ剝がれていた。


「何か、映画みたい」


彩香が小声で言った。


「何の?」

「学校の怪談とか」


「言わないで」


真帆がすぐに返した。


彩香が真帆を見る。


「真帆、怖いの?」

「別に」


「今、言わないでって言った」

「余計なことを考えたくないだけ」


真帆は私のすぐ隣を歩いていた。


いつもより近い。


腕がときどき触れるくらいだった。


私は何も言わなかった。


言えば、離れそうだった。


理沙は折り畳んだ紙を開いた。


「旧技術室は、この先」

「地図あるの?」


私が覗き込む。


「学校案内の簡略図」

「ちゃんと準備してる」


「当然」


紙には、現在使っている校舎と、旧校舎の大まかな配置が描かれていた。


けれど、教室名までは細かく書かれていない。


「旧技術室、載ってないよ」


彩香が言う。


「位置はだいたい分かる」

「だいたい?」


「旧家庭科室の反対側」

「何で?」


「設備の配置から考えて」

「分からない」


「私も」

「真帆は?」


「分からない」


理沙は紙を畳んだ。


「歩けば見つかる」

「急に適当」


私が言った。


「由佳に言われたくない」


****


廊下の最初の教室は、使われなくなった普通教室だった。


扉のガラスから中を覗くと、机と椅子が壁際へ寄せられている。黒板には何も書かれていない。


窓辺に、古い鉢植えだけが残っていた。


土は乾いていた。


「誰か、水あげてないのかな」


彩香が言う。


「もう枯れてる」


理沙が答える。


「そうだけど」

「掃除する?」


私が聞いた。


理沙は教室の札と、中の床を見た。


「帰りに余裕があれば」

「余裕あるかな」


「予定ではある」

「予定どおり進んだこと、今日一回もないよ」


「カラオケを出た時間は合っていた」

「そこだけじゃん」


理沙は無視して先へ進んだ。


私たちもついていく。


廊下を歩くたび、床板が小さく鳴った。


最初は、その音も面白かった。


彩香がわざと大股で歩き、一番大きく鳴る場所を探した。


「ここ、すごい」


ぎし、と床が鳴る。


「やめて」


理沙が言う。


「床が傷んでるかもしれない」

「先生にも言われたでしょ」


私も言った。


「分かってるけど、ちょっと楽しい」


彩香はもう一度だけ踏んだ。


ぎし。


真帆が彩香の袖を引いた。


「壊れたら帰れない」

「そこまで弱くないでしょ」


「分からない」

「真帆、怖がりすぎ」


「彩香が平気すぎる」


二人の言い方は少し違ったが、どちらも本気だった。


****


廊下の角に、古い美術作品が何枚か立てかけてあった。


文化祭で使ったらしい大きな看板。

色紙を貼った風景画。

木枠に入ったままの石膏デッサン。


真帆が足を止めた。


「これ、誰が描いたんだろう」


一枚の絵を見ている。


校舎の窓を描いた油絵だった。


絵の中の窓は暗く、その前に椅子が一つだけ置かれている。


「怖い絵?」


彩香が聞く。


「別に」

「誰もいないよ」


「人がいない絵は普通にある」

「この椅子に誰か座ってたんじゃない?」


私が言った。


真帆がこちらを見る。


「誰?」

「美術部の先輩」


「どんな人?」

「毎日ここで、誰かを待ってた」


「誰を?」


彩香が聞く。


「まだ決めてない」

「男子?」


「たぶん」

「もう一人は?」


「この窓の外にいる」


真帆が絵へ顔を近づけた。


「見えないけど?」

「見えないからいいんじゃない?」


「どうして?」

「中にいる方は、来ないと思ってる。でも、外にはちゃんと来てる」


彩香が息をのんだ。


「待って、嬉しいんだ!」

「何が?」


理沙が聞く。


「来てくれてること!」

「本人はまだ気づいていない」


「これから気づくの!」

「窓を開ける?」


私が言う。


「開けたら、外に立ってる」

「雨」


真帆が言った。


「雨の日?」

「その方がいい」


「濡れてる?」


彩香が聞く。


「少し」

「迎えに来たの?」


「そこまでは考えてない」

「でも来てるんでしょ?」


「来てる」


「それ、最高じゃん!」


理沙が油絵の窓を見た。


「中へ入れる」

「まずそこなんだ」


私が言う。


「濡れているなら、着替えが必要」

「理沙、学校だよ」


「美術室に布があるかもしれない」

「何に使うの?」


「拭く」

「その先は?」


「まだ何も言ってない」


言おうとしていた。


真帆は油絵をしばらく見たあと、スケッチブックを取り出した。


「描くの?」


私が聞く。


「構図だけ」

「今?」


理沙が時計を見る。


「時間がない」

「一分」


「本当に一分?」


真帆は返事をせず、鉛筆を動かした。


窓。

椅子。

室内の男子。

ガラス越しに見える、外の男子の影。


一分では終わらなかった。


理沙は三分待ち、四分目に言った。


「行くよ」


真帆は鉛筆を止めた。


「あとで描く」

「忘れない?」


私が聞く。


「覚えてる」


彩香がスケッチブックを覗く。


「この二人、絶対両思い」

「そこまでは考えてない」


「でも、雨の中で来てるんだよ?」

「来てるだけ」


「好きじゃなきゃ来ないよ!」


真帆はスケッチブックを閉じた。


「好きかも」


彩香が両手で口を押さえた。


声を出さずに沸騰している。


***


私たちはまた歩き始めた。


「真帆、美大でもこういう絵を描くの?」


彩香が聞いた。


真帆の足が少し遅くなった。


「まだ決めてない」

「受けるんでしょ?」


「分からない」

「何が?」


「受かるか」

「受けないと受からないよ」


「それは分かってる」


真帆はスケッチブックを胸の前で持った。


さっきまで絵の話をしていたときより、声が少し小さい。


「美大って、みんな真帆くらいうまいのかな」


私が言った。


「もっと上手い人がいる」

「でも、真帆もうまいじゃん」


「そういう話じゃない」

「どういう話?」


彩香が聞く。


真帆はしばらく答えなかった。


廊下の窓から、校庭が見えた。


遠くで運動部が走っている。


声は聞こえるのに、ここだけ別の場所みたいだった。


「自分より上手い人が、いくらでもいるから」


真帆が言った。


「行っても、何もできないかもしれない」

「そんなことないよ」


彩香がすぐに返した。


「真帆、神だよ」

「三人の中では」


「学校でも一番じゃない?」

「分からない」


「少なくとも、私が知ってる中では一番」

「彩香は美術部じゃない」


「関係ないじゃん。見たら分かるよ」


理沙が言った。


「試験には、技術以外も必要でしょう」

「理沙」


私が止める。


「何?」

「今、それ言う?」


「事実」

「理沙は応援してないの?」


「してる」

「じゃあ先に言って」


理沙は真帆を見る。


「受けた方がいいと思う」

「どうして?」


「受けなければ、合格する可能性はないから」

「それ、彩香と同じ」


「私はもっと正確に言った」

「同じだよ」


彩香が笑う。


真帆も少しだけ笑った。


私は、真帆の持っているスケッチブックを見た。

中には、名前のない男子が何人もいる。


触れそうで触れない手。

目を合わせない二人。

雨の中で待つ人。


その絵を見たとき、私はいつも続きを考えたくなった。


真帆が何も考えていないと言っても、そこには何かがあった。


「受かるかは分からないけど」


私は言った。


真帆がこちらを見る。


「真帆は、好きな絵を描けばいいんじゃない?」

「試験で?」


「試験は試験の絵を描くんだろうけど」

「それじゃ意味が違う」


「分かってるよ」


私は少し考えた。


「行きたいなら、行った方がいいと思う」

「落ちたら?」


「落ちたら、そのとき考える」

「由佳っぽい」


理沙が言った。


「悪い?」

「適当」


「でも、まだ落ちてないでしょ」

「まだ受けてもいない」


真帆が答える。


「そう。だから、今から落ちた話をしなくていいよ」


真帆は何も言わなかった。


でも、私から少し離れていた肩が、また近くへ戻った。


「美大行ったら、獣人描いて」


理沙が言った。


「描かない」

「まだ何も説明してない」


「長いから」

「耳は人型のままで、発情期だけ――」


「それは描かない」

「番の相手は、匂いで分かる」


「聞いてない」

「体格差は必要」


「理沙、止まらないね」


私が言った。


「まだ基本設定」

「それで基本なんだ」


彩香が真帆の隣へ寄った。


「獣人じゃなくてもいいけど、受けがちゃんと嬉しいのが分かる絵にして」

「どういうの?」


「スパダリに独占されて、恥ずかしがってるけど、本当はすごく嬉しいの」

「注文が細かい」


「そこが大事なんだって!」

「顔は?」


理沙が聞く。


「可愛い方がいい」

「幼くはしない」


真帆が言った。


「それでいい。可愛いけど、ちゃんと男の子」

「そこまでは考えてない」


「今、考えて!」

「考えない」


「真帆が美大に行ったら、二人の注文だけで卒業できそう」


私が言った。


「由佳も話をつけるでしょう」

「私は描いたあとで考えるから」


「一番面倒」


真帆が言った。


「ひどい」


理沙はまだ何か言いたそうだったが、真帆がスケッチブックを閉じたので諦めた。


****


少し歩いてから、理沙が彩香を見る。


「健太の前でも、今くらい話すの?」

「話すわけないでしょ」


彩香はすぐに答えた。


「全然?」

「全然」


「もったいない」


私が言った。


「何が?」

「今の彩香、すごく楽しそうだったから」


彩香は少しだけ黙った。


「健太の前では、普通の曲を歌って、普通の漫画の話して、普通に笑ってるよ」

「彩香はいつも普通に笑ってる」


「そういう意味じゃないの」

「分かる」


真帆が小さく言った。


少し歩いてから、彩香が言った。


「でも、普通の彼女やってるの、たまに疲れる」

「普通の彼女?」


私が聞く。


「こういう話を知らない顔して、普通の曲を歌って、普通の漫画の話して」

「言いたい?」


「分かんない」


彩香は少し考えた。


「言って引かれるのは嫌。でも、ずっと隠すのも面倒」

「なら、言う」


理沙が言った。


「簡単に言わないでよ」

「言わなければ分からない」


「分からないから言えないんじゃん」


彩香が私を見る。


「由佳ならどうする?」


私は考えた。


どうすればいいのか、私にも分からなかった。


「いつか、男の子でも、こういう趣味を分かってくれる時代が来るかもよ」


三人が黙った。


言ってから、自分でも根拠がないと思った。


「来るかな」


彩香が聞く。


「分かんない」


私は答えた。


「来たらいいね」


彩香は少しだけ笑った。


「うん」


少しして、彩香が言った。


「ところで、うちの学校って、意外と格好いい男子多いよね」

「そう?」


理沙が聞く。


「二つ上にもいたじゃん」

「ああ」


私も思い出した。


「藤田先輩と中村先輩」

「いたね。藤田先輩、サッカー部だっけ?」


彩香が言った。


「中村先輩が野球部じゃなかった?」

「たぶん」


「二人とも格好よかったよね」

「女子に人気だった」


理沙もそれだけ言った。


****


次の角を曲がると、壁に古い進路資料の棚があった。


大学案内や学校案内が何冊か残っている。


理沙が足を止めた。


「古い」


一冊を引き抜く。


紙の表紙が少し曲がっていた。


「理沙、こういうの好きそう」


彩香が言う。


「好きではない」

「でも見るんだ」


「情報は確認する」

「受ける大学、もう決めたの?」


私が聞いた。


理沙は資料を棚へ戻した。


「だいたい」

「国立?」


「親はそう言ってる」

「理沙も行きたいんでしょ?」


「勉強は嫌いじゃない」

「じゃあいいじゃん」


彩香が言った。


理沙はすぐに答えなかった。


そのまま歩き出す。


私たちもついていった。


「嫌なの?」


真帆が聞いた。


理沙は前を向いたまま言った。


「失敗できないのが嫌」


その言葉だけは、いつもより短かった。


「落ちたら怒られる?」


私が聞く。


「怒るというより、困ると思う」

「誰が?」


「親が」

「理沙も?」


「私も」

「じゃあ、何が嫌なの?」


彩香が聞いた。


理沙は眼鏡を押し上げた。


「ずっと、できる前提で話されること」

「できるでしょ」


彩香が言いかけ、すぐに口を閉じた。


「ごめん」

「別に」


「でも、理沙ならって思っちゃう」

「みんながそう思うから嫌なの」


理沙の声は変わらなかった。


ただ、歩く速さが少し上がっていた。


「もし失敗したら、全部私のせいになる」

「試験だから、そうじゃない?」


彩香が言ってから、また困った顔をした。


理沙も怒らなかった。


「そう。だから嫌」


真帆が言う。


「一番BLでストレス解消してるの、理沙」


理沙が振り返った。


「真帆まで」

「本当」


「この前も、来てすぐ同人誌の後ろから読んでた」


私が言う。


「話の流れを確認しただけ」

「後ろから?」


彩香が笑う。


「目的の場面がどこか」

「ほら!」


「効率的でしょう」

「自然な流れじゃないんだ」


「自然な流れを早く確認するため」


理沙は真顔だった。


私たちは笑った。


理沙も、少し遅れて笑った。


「逃避してもいいよ」


私は言った。


「だって楽しいもん」

「また適当」


「でも楽しいでしょ?」

「楽しい」


理沙は否定しなかった。


「ならいいじゃん」

「よくはない。勉強はする」


「しながら逃避すればいいよ」

「器用なことを言う」


「理沙ならできる」

「そういう期待が苦しいと言ったばかり」


「あ」


彩香が吹き出した。


「由佳、最悪」

「ごめん」


私も笑った。


理沙はため息をついた。


「でも、読むのはやめない」

「それでいいよ」


「由佳に許可されることではない」

「そうだけど」


「次の本も美紀さんから借りて」

「姉ちゃんに聞いとく」


問題は、やはり何も解決していなかった。


それでも理沙の歩く速さは、少し元へ戻った。


****


廊下の突き当たりには、古い教室札が掛かっていた。


文字はかすれている。


「ここ、何室?」


彩香が近づく。


「進路資料室」


理沙が読む。


「さっきの棚と違うの?」

「たぶん、別」


「進路の場所、多くない?」

「昔は使い分けていたのかも」


私たちは扉のガラスから中を覗いた。


棚と段ボールが並んでいる。


その奥に、丸めた大きな紙が何本も立てかけられていた。


「由佳は?」


真帆が聞いた。


「何が?」

「進路」


「急だね」

「三人の話はしたから」


「順番に話してたわけじゃないよ」

「でも、由佳だけしてない」


彩香もこちらを見る。


「そういえば、由佳って何になるの?」

「何って」


「将来」


私は困った。


進学先の候補はいくつかあった。


でも、そこで何をしたいのかはよく分からなかった。


仕事のことは、もっと分からない。


「面倒な子」


理沙が言った。


「まだ何も言ってない」

「顔で分かる」


「何、その能力」

「由佳、将来の話になると、いつも目が泳ぐ」


彩香まで言う。


私は廊下の窓を見た。


校庭。

古い木。

向こうの校舎。


確かに、見る場所を探していた。


「ずっとBLに関われたらいいかな」

「どうやって?」


彩香が聞く。


「分からない」

「本屋?」


「それも違う気がする」

「出版社」


理沙が言う。


「難しそう」

「編集者」


「忙しそう」

「書店員」


「立ち仕事」

「由佳、やる気ある?」


「あるよ。少し」

「少しなんだ」


真帆が言った。


「小説家になれば?」


私は真帆を見た。


「小説家?」

「書いてるから」


「ノートにちょっとだけだよ」

「話を考えるの好きでしょう」


「好きだけど」

「なら、書けばいい」


真帆は簡単に言った。


私は少し考えた。


書くことは好きだった。

真帆の絵から話を作るのも好きだった。

一人でノートに短い話を書くのも楽しかった。


でも、それを仕事にするところは想像できなかった。


「書くのは好きだけど、仕事にはしたくない」

「どうして?」


彩香が聞く。


「好きなままにしておきたい」

「仕事にしたら嫌いになるってこと?」


「そうなるかもしれないし、ならないかもしれないけど」

「分からない」


理沙が言う。


「私も、うまく説明できない」


私は笑った。


「分かるかな、この感じ」


彩香は首を傾げた。


理沙も、考えている顔をした。


真帆だけが言った。


「なるほどね」

「分かる?」


「少し」

「何で真帆だけ分かるの?」


彩香が聞く。


「絵も似てるから」

「美大行く話と逆じゃない?」


「私は仕事にしたいかもしれない」

「まだ決めてないんでしょ?」


「そう」

「じゃあ由佳も、あとで変わるかもよ」


「変わるかもね」


私は答えた。


「まあ、なんとかなるでしょ」


理沙がすぐに言う。


「また出た」

「でも、ほとんどの高校生って、こんな感じじゃない?」


私は言った。


「みんな将来決めてる?」

「決めてる人もいる」


理沙が答える。


「決めてない人もいる」


真帆が言う。


「私はバレー続けるかも決めてない」


彩香も言った。


「じゃあ同じじゃん」

「由佳ほど何もないわけじゃない」


「ひどい」


四人で笑った。


私の将来は、やはり曖昧なままだった。


でも、旧校舎の廊下で三人と話している間は、それほど困ったことには思えなかった。


少なくとも、今日の目的は決まっている。


旧技術室の近くにある男子トイレを見つける。


その先のことは、あとで考えればいい。


****


「そろそろ旧技術室じゃない?」


彩香が言った。


理沙が地図を開いた。


「たぶん」

「さっきも聞いた」


「反対側へ進んでいるはず」

「何の反対側?」


「旧家庭科室」

「それ、どこにあった?」


私たちは立ち止まった。


少し前に、調理台のようなものが見える教室があった気がする。


でも、話しながら歩いていたので、どの角を曲がったあとだったか覚えていない。


「戻る?」


真帆が聞いた。


理沙は地図と廊下を見比べた。


「このままでいい」

「本当に?」


「たぶん」

「今日、理沙の『たぶん』多くない?」


彩香が言った。


「地図が簡略すぎる」

「地図のせいにした」


「事実」


私たちはそのまま先へ進んだ。


廊下の窓が、少しずつ小さくなっていく。


こちら側は校舎の陰に入っているらしく、床へ差し込んでいた日差しもなくなった。


風が吹いた。


どこかの教室で、扉が動いた。


ぎい。


彩香が止まる。


「今の何?」

「扉」


真帆が答える。


最初と同じ会話だった。


でも、今度は誰も笑わなかった。


理沙が振り返る。


「風」

「分かってる」


「なら進む」

「理沙、怖くないの?」


「幽霊はいない」

「幽霊の話してないよ」


「彩香の顔がしてる」

「どんな顔?」


「幽霊を考えてる顔」

「考えてない」


そのとき、廊下の奥で、何かが落ちる音がした。


四人とも固まった。


乾いた音。


小さく何度か跳ね、止まる。


彩香が私の腕をつかんだ。


反対側では、真帆も私の袖を握っている。


理沙だけが一歩前に出た。


「何か落ちただけ」


声が少し高かった。


「見に行く?」


私が聞く。


「進行方向だから」

「行くんだ」


「戻る理由はない」


理沙は地図を強く持っていた。


紙の端が少し曲がっている。


廊下の奥へ進む。


一歩ごとに床が鳴った。


さっきまでは遠くに聞こえていた運動部の声が、もう聞こえない。


窓の外には、校舎の裏手と、伸びた草しか見えなかった。


落ちていたのは、古いチョークだった。


教室の入口近くに一本、白いチョークが転がっている。


「チョーク」


私が言った。


「見れば分かる」


理沙が答えた。


「何で落ちたの?」


彩香が聞く。


「風」

「箱もないのに?」


「前から扉の上に乗ってたとか」

「誰が乗せたの?」


「知らない」

「誰かいるんじゃない?」


「いない」


理沙の返事が早かった。


真帆が私の袖を離さない。


私も、離してほしいとは思わなかった。


「ここ、さっき通った?」


彩香が言った。


「通ってない」


理沙が答える。


「でも、この掲示板見た気がする」


壁には、色あせた校内新聞が貼られていた。


「似たものが多いから」

「本当に?」


「本当」

「旧技術室、どっち?」


理沙がまた地図を見る。


しばらく黙った。


「理沙?」


私が呼ぶ。


「少し待って」

「迷った?」


「確認してる」

「それを迷ったって言うんじゃない?」


彩香が聞いた。


理沙は否定しなかった。


廊下の先には、二つの角があった。


右も暗い。


左も暗い。


どちらにも、旧技術室の札は見えない。


窓のない教室の扉が、風もないのに少しだけ動いた。


ぎい。


彩香が私の腕をさらに強くつかんだ。


「帰る?」


小さな声だった。


理沙は地図から顔を上げた。


「まだ帰らない」

「じゃあ、どっち?」


「考える」


真帆が私の耳元で言った。


「由佳」

「何?」


「神社って言ったの、由佳だよね」

「言ったけど」


「神社なら、変なものいない?」

「神様はいるかも」


「それ、変なものに入る?」

「入らないんじゃない?」


「じゃあ大丈夫?」

「たぶん」


自分で言っておいて、まったく安心できなかった。


私は暗い廊下の先を見た。


男子だけが知っている秘密の場所は、まだ見つからない。


その代わり、戻る道が少し分からなくなっていた。


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