表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/9

第9話 今も楽しい

本を閉じると、カフェ・リーフの音が戻ってきた。


食器の触れる音。

通りを走る車。

テラスを抜ける風。


目の前には、真帆と彩香と理沙がいた。


「それで、どうだった?」


彩香に聞かれ、私は本を両手で持ち直した。


『君の手に触れる前に』


「よかった」

「それだけ?」


「今、言葉を探してるの」

「泣いた?」


「少し」

「どこで?」


「最後の、手を伸ばすところ」

「そこ、最高じゃん!」


彩香が身を乗り出す。


昔と変わらない。


好きな受けが幸せになると、今でもすぐに声が大きくなる。


「声」


理沙が言った。


「昔より小さいよ」

「店の中」


「分かってるって」


理沙は私の前から本を取った。


ぱらぱらとページをめくる。


「理沙、後ろから読むのやめたんだ」


私が言う。


「もう読んだ」

「いつ?」


「発売日に電子で」

「じゃあ何を確認してるの?」


「紙での見え方」

「本当に?」


彩香が覗き込む。


「目的の場面じゃないの?」


理沙は答えなかった。


開いているのは、ちょうど二人が初めて同じベッドへ入る場面だった。


「ほら」


私が言う。


「自然な流れ」


理沙は平然としていた。


「そこ、何回読んだの?」


彩香が聞く。


「数えていない」

「三回以上だ」


「数えていない」

「それで、どこまでしたの?」


理沙が真帆を見る。


「読んだでしょ」


真帆が答える。


「作者から聞きたい」

「そこまでは描いてない」


「次のページで朝になっている」

「うん」


「省略した部分は?」

「考えてない」


「嘘」

「考えたけど描かない」


「何をしたの?」

「理沙」


真帆が本を取り返した。


「読者に任せる」

「作者として無責任」


「理沙が考えればいい」


理沙は黙った。


たぶん、もう考えている。


私は表紙をもう一度見た。


窓際に座る男子。

机へ手をつく、もう一人。

近いのに、まだ触れていない二人。


さっきから頭の中に残っていた景色が、ようやく一つにつながった。


「これ、あの頃の絵に似てる」


私が言った。


「何の?」


彩香が表紙を見る。


「真帆が高校のときに描いてたやつ」


真帆はコーヒーを飲んだ。


「どれ?」

「窓の近くに一人いて、もう一人が外から来る話」


「旧校舎の?」


真帆が言った。


それで、ぼんやりしていた景色の輪郭がはっきりした。


古い廊下。

立てかけられた油絵。


窓の内側で誰かを待つ男子。

雨の中を来る、もう一人。


「あったね」


私が言った。


彩香も少し考えてから、目を丸くした。


「ああ、旧校舎!」

「懐かしい」


理沙も言った。


「真帆、あのときスケッチしてた」

「うん」


「よく覚えてたね」


私が言う。


「絵は覚えてる」

「私、完全に忘れてた」


彩香が笑った。


「言われたら思い出したけど」

「私も」


理沙が表紙を見た。


「旧校舎、結局どうなったんだろう」

「まだあるのかな」


「建て替えてるんじゃない?」

「もう使ってなかったしね」


私たちは、しばらく表紙を見た。


そこから、もう一つ思い出すまでには、少し時間がかかった。


先に気づいたのは彩香だった。


「ねえ」

「何?」


「あそこって、あれもあったよね」

「あれ?」


彩香が声を落とした。


「男子トイレ」


四人とも黙った。


数秒して、私は笑った。


「あったね」

「相合傘」


真帆が言った。


「あった」


理沙もうなずく。


思い出してみれば、はっきりしていた。


暗い男子トイレ。

個室の扉。

びっしり書かれた相合傘。


藤田直人。

中村祐介。

その上についた、小さなハート。


けれど、本を読むまで私は、そのことを考えてもいなかった。


「すごい久しぶりに思い出した」


私が言う。


「私も」


彩香が笑う。


「そうそう。あったね、そんなこと」

「本当に誰にも言わなかった」


理沙が言った。


「偉い」

「普通」


「高校生にしては偉くない?」

「自分たちで覗いておいて?」


「それを言わないで」


彩香が笑った。


「結局、あの二人どうなったんだろうね」

「知らない」


真帆が答える。


「調べたことある?」

「ない」


「私もない」


理沙も首を振る。


私もなかった。


名前を検索しようと思ったことすらない。


秘密を守るため、強い意志で我慢してきたわけではなかった。


普段の生活の中で、いつの間にか思い出さなくなっていただけだ。


「今なら探せるかもね」


彩香が言った。


「同姓同名が多そう」


理沙が答える。


「藤田さんと中村さんだもんね」

「でも、卒業生のつながりをたどれば」


「理沙、本気出さないで」


私が止める。


「出してない」

「知りたい?」


彩香が聞いた。


理沙は少し考えた。


「少し」

「私も」


「でも、別にこのままでいいか」


私が言った。


「そうだね」


彩香もあっさりうなずく。


「今さら本人に聞けないし」

「聞くつもりだったの?」


「ないよ」


真帆が本を鞄へしまった。


「分からないままでいい」

「真帆は昔からそれだね」


「何が?」

「続きを決めない」


「決めなくていいものもある」


それで、相合傘の話は一度終わった。


昔の私たちなら、どちらが先に書いたのか、どちらが受けか、何時間でも話したと思う。


今は、注文したケーキが来れば、そちらを見る。


「これ、誰の?」


彩香がモンブランを指さした。


「私」


理沙が答える。


「一口ちょうだい」

「嫌」


「昔はくれたじゃん」

「あげてない」


「そうだっけ?」

「勝手に食べた」


「じゃあ今も同じで」

「やめて」


彩香のスマートフォンが鳴った。


画面を見て、すぐに返事を打つ。


「旦那さん?」


私が聞く。


「うん。子どもと先にご飯食べてるって」

「帰らなくて大丈夫?」


「今日は遅くなるって言ってある」

「何て?」


理沙が聞く。


「真帆の新刊祝いと、腐女子会」


あまりに普通に言うので、私は少し笑った。


「全部言ってるんだ」

「知ってるよ」


彩香はスマートフォンを鞄へ戻した。


「本棚も見られてるし、イベントも行くし」

「引かなかった?」


彩香は少し考えた。


「最初は驚いてた」

「やっぱり」


「でも、私が楽しそうだからいいって」

「よかったね」


私が言った。


「何が?」

「普通の彼女じゃなくてよくなって」


彩香は一度、目を丸くした。


「そんな話もしたっけ」

「旧校舎で」


「ああ」


彩香は少し考えた。


「言ったかも」

「私が、いつか男の子でも分かってくれる時代が来るかもって」


「それは覚えてない」

「ひどい」


「でも、来たじゃん」


彩香は笑った。


「時代かどうかは分からないけど」

「うちには来た」


「なら、よかった」

「うん」


理沙が言う。


「健太とは、結局どうなったの?」

「別れたよ」


「いつ?」

「高校卒業して少ししてから」


「相合傘の効果、短い」

「やめてよ!」


彩香が笑う。


「かなったことは、かなったでしょ」

「そうだね」


「健太が書いたのかな」

「さあ」


「今さら聞かないよね」

「聞かない」


彩香はモンブランへ手を伸ばした。


理沙が皿を遠ざける。


「そっちの方が気になる」

「一口だけ」


「自分のケーキがあるでしょう」

「交換」


「嫌」


相合傘の秘密は、モンブラン一つで会話の外へ押し出された。


たぶん、現実の思い出はそのくらいでいい。


忘れていたわけではない。


大切に抱えていたわけでもない。


何かの拍子に思い出して、あったね、と笑う。


「由佳の新しいの、更新した?」


彩香が聞いた。


「昨日」

「通知来なかった」


「お気に入り外した?」

「外してない!」


彩香はスマートフォンを取り出した。


「どれ?」

「今、読まなくていいよ」


「何で?」

「目の前にいるから恥ずかしい」


「昔、カラオケで全部話してたじゃん」

「文章にすると違うの」


理沙もスマートフォンを出す。


「題名は?」

「言わない」


「検索する」

「やめて」


「もう知ってる」

「何で?」


「彩香が送ってきた」


私は彩香を見る。


「だって面白かったから」

「勝手に送らないでよ」


「四人だけだよ」

「真帆にも?」


真帆が目をそらした。


「読んだ」

「いつ?」


「前から」

「何で何も言わないの?」


「言う必要がなかった」

「感想ちょうだいよ」


真帆は少し考えた。


「……それ、いい」

「短い!」


でも、嬉しかった。


たぶん真帆には、それで十分だった。


「商業にしないの?」


彩香が聞いた。


「しないよ」

「どうして?」


「仕事にしたくないから」


三人が一瞬黙った。


昔も、同じことを言った気がする。


「まだ好きなままにしておきたい?」


真帆が聞く。


「うん」


私は答えた。


「今のところはね」


理沙が本を閉じる。


「読めるなら、どちらでもいい」

「理沙らしい」


「更新は早い方がいい」

「急かさないで」


「次、二人が旅行へ行くところでしょう」

「何で知ってるの?」


「前回の最後に書いてあった」

「ちゃんと読んでる」


「読んでいる」

「仕事忙しいんじゃなかった?」


彩香が聞く。


「忙しくても読む」


理沙は眼鏡を押し上げた。


「読む時間がないなら、寝る時間を減らす」

「減らさない方がいいよ」


「由佳に言われたくない」

「何で?」


「更新時間が午前二時だった」

「ばれた」


「身体に悪い」

「はい」


「そういえば」


彩香が私を見る。


「由佳、お掃除のおばちゃんにならなかったね」

「ならなかった」


「男子トイレへ入るとき、将来そうなるかもしれないって言ってた」

「あったね」


「まだ分からない」


理沙が言った。


「何が?」

「いずれ、パートとかでお掃除おばちゃんはある」


私は少し考えた。


「確かに」

「否定しないんだ」


彩香が笑う。


「将来はまだ分からないから」

「高校のときと同じこと言ってる」


真帆が小さく笑った。


「由佳なら、どこでも話を考えてる」

「男子トイレを掃除しながら?」


「たぶん」

「それ、ありじゃない?」


私が言うと、三人が笑った。


「カラオケ、予約してるんだよね?」


彩香が時計を見る。


「八時から」


理沙が答える。


「またパル?」

「もうないよ」


私は言った。


「違う店」

「パル、なくなったんだ」


彩香が少し残念そうな顔をした。


「ずいぶん前に」

「知らなかった」


「今度の店、持ち込みできる?」

「できない」


「本、広げてもいい?」

「カラオケでする話?」


「するでしょ」


彩香は真帆の本を持ち上げた。


「作者本人を前に、ここがいい、ここが足りないって言う」

「足りないは言わないで」


真帆が答える。


「理沙は絶対言うよ」

「必要なら」


「言うんだ」

「次は、もう少し朝までの過程が必要」


「それは描かない」

「読者は求めている」


「理沙がでしょ」

「読者の一人」


真帆は本を鞄へしまった。


「行く?」

「行こう」


私たちは席を立った。


昔と同じように、四人で店を出る。


あの頃は、学校では四人で歩かなかった。


真帆と私はいつも一緒だった。

彩香は部活の友達といた。

理沙は図書室にいた。

カラオケへ行くときだけ、四人になった。


今は、四人で並んで歩いても、誰も不思議には思わない。


「一曲目、何にする?」


彩香が聞く。


「普通の曲」


私が言った。


彩香が笑う。


「普通って何?」

「彩香が昔、健太の前で歌ってた曲」


「覚えてないよ」

「じゃあ、アニソン」


「それ普通?」

「私たちには普通」


理沙が言った。


「正解」


彩香が理沙の腕を取る。


真帆が私の隣を歩く。


肩が少し触れた。


昔と同じだった。


違うところもたくさんある。


真帆は、本当に漫画家になった。

彩香には、好きなものを隠さなくていい家がある。

理沙は忙しく働きながら、今でも誰より早く本を読む。

私は会社員になって、それでも夜になると物語を書いている。


今日、真帆の本を読むまで、旧校舎のことなんて考えていなかった。


男子トイレも。

相合傘も。

ハートも。


ずっと支えにしてきた、なんて言ったら嘘になる。


思い出さない年の方が、きっと多かった。


それでも、今回ふと思い出してみると、あのとき四人で勝ち取った秘密が、今の私のどこかに少しだけ残っている気がした。


怖くても行ってみること。

好きなものを好きだと言うこと。

分からないものを、分からないまま楽しむこと。


そんなものを覚えたのは、あの日だったのかもしれない。


なんてね。


本当のところは、よく分からない。


昔の出来事は、あとからいくらでも意味をつけられる。


たぶん誰にでも、普段は忘れているのに、思い出すと少しだけ今の自分へつながっている気がする出来事がある。


大事件ではない。

誰かに話すほどでもない。


ただ、そのとき一緒にいた人となら、「あったね」と笑えるようなこと。


「由佳、早く」


彩香が振り返る。


「置いてくよ」

「待って」


私は真帆と一緒に、二人の後を追った。


本当のところは、今も分からない。


それでいい。


あの頃も、楽しかった。


今も、楽しい。




** あの夏、腐女子四人は旧校舎を走った ~男子だけが知る秘密を探して~ (おしまい)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ