第3話 男子だけが知っている
「学校の旧校舎に、男子しか知らない場所があるんだって」
彩香がそう言った瞬間、理沙はマイクを置いた。
真帆も鉛筆を止めた。
私だけが、歌本を開いたまま彩香を見た。
「何それ」
「だから、男子しか知らない場所」
「それは聞いた」
「旧校舎のどこ?」
理沙が聞いた。
質問が早い。
彩香は周囲を見回した。
カラオケの個室に、私たち以外はいない。
扉の向こうでは誰かが別の曲を歌っていて、廊下を店員が通る音もした。
それでも彩香は少し声を落とした。
「旧技術室の近く」
「旧技術室ってどこ?」
私が聞くと、理沙が答えた。
「旧校舎の奥」
「奥のどっち?」
「知らない」
「知らないんだ」
「用がないから」
理沙は成績もよく、生徒会副会長で、校内のことなら何でも知っていそうに見えた。
でも、旧技術室へ行ったことはないらしい。
真帆がスケッチブックの端に、小さく四角を描き始めた。
「それで?」
彩香が言う。
「旧技術室か、旧技術準備室か、その辺の近くにある男子トイレ」
「男子トイレ?」
私たちは同時に言った。
彩香がうなずく。
「そう」
「ただの男子トイレでしょう」
理沙が言った。
「普通のじゃないらしいの」
「どう普通じゃないの?」
「そこまでは知らない」
「役に立たない」
「まだ話の途中!」
彩香は理沙を睨んだ。
「健太が、あそこは男子しか知らないって言ったの。場所のことも、中に何があるかも」
「中身を知ってるんだ」
私が言うと、彩香はうなずいた。
「行ったことあるって」
「健太が?」
「そう」
理沙が少し身を乗り出した。
「一人で?」
「そこは聞いてない」
「聞くべきでしょう」
「なんで?」
「重要だから」
「何に?」
「人数で用途が変わる」
「もうやめて」
彩香が片手で顔を覆った。
真帆は、さっき描いた四角の隣に細い線を引いている。
たぶん扉だった。
「健太は、何て言ったの?」
私が聞いた。
「最初は、旧校舎の話をしてたの。夏休みに補習で行くかもしれないとか、そんな話」
「健太、補習なの?」
「かもしれないってだけ」
「それで?」
「旧技術室の近くは行かない方がいいって言うから、なんでって聞いたの」
「怪しい」
理沙が言った。
「でしょ?」
「何かある」
「だから聞いたの。そしたら、男子しか知らない場所があるって」
「自分から言ったんだ」
「うん。言ったあとで、顔が変わった」
彩香は、健太の真似をするように眉を寄せた。
「『俺が言ったって絶対言うなよ』って」
少しだけ低い声だった。
似ているのかどうかは分からない。
私たちは健太が彩香と話しているところを遠くから見たことはあっても、まともに会話したことはほとんどなかった。
「本気で焦ってた?」
私が聞く。
「かなり」
「彩香に知られたくなかったんじゃなくて?」
「違うと思う」
彩香は少し考えた。
「自分が困るっていうより、ほかの男子に怒られるのを気にしてる感じだった」
「共同管理」
理沙が言った。
「何を?」
「場所を」
「男子全員で?」
「全員ではないでしょう」
「じゃあ、選ばれた男子だけ?」
私が言うと、真帆が顔を上げた。
「それは違うと思う」
「どうして?」
「選ぶなら、健太は漏らさない」
「真帆、健太に厳しくない?」
「事実」
彩香が笑った。
「まあ、健太だからね」
彼氏に対する評価として、それでいいのだろうか。
「でも、中身は絶対言わなかった」
彩香は続けた。
「何回聞いても、俺だけのことじゃないから無理って」
理沙が腕を組んだ。
「自分以外の秘密がある」
「そう」
「複数人が関係してる」
「たぶん」
「記録か」
「何の?」
「名簿」
「何の名簿?」
「秘密の」
「分からないなら言わないで」
彩香が言った。
私は、旧校舎の奥にある男子トイレを想像した。
使う人が少ない。
女子は近づかない。
男子だけが場所を知っていて、中身を外へ言わない。
「もしかしたら、神社みたいなものじゃない?」
三人が私を見た。
「男子トイレが?」
彩香が聞いた。
「神社っていうか、願掛けする場所」
「何を願うの?」
「試合に勝つとか、受験とか」
「男子トイレで?」
理沙が聞いた。
「誰にも見られないから」
「神様は見てる」
「そこはいいんじゃない?」
「何が?」
「神様なら」
自分でも、少し分からなくなってきた。
それでも、秘密の場所で何かを願うという考えは、ありそうな気がした。
「壁に願いを書くとか」
私が言うと、真帆がまた鉛筆を動かした。
「薄暗い?」
「たぶん」
「窓は?」
「小さいんじゃない?」
「壁は古い」
「いいね」
真帆の返事が少し早くなった。
興味を持っている。
「男の子が二人で来るの」
彩香が言った。
理沙がすぐに見る。
「二人で?」
「たとえば!」
「続けて」
「普段は学校で普通にしてる二人が、誰も来ないところへ行くの」
彩香はもう、健太の話をしていなかった。
「一人が先に入って、もう一人があとから来るとか」
「待ち合わせ?」
私が聞く。
「そう。で、入ったら、急に距離が近くなるの」
「なぜ?」
理沙が聞いた。
「学校でいちゃいちゃできないから!」
「なら個室に入る」
「まだ入らない!」
「トイレなのに?」
「まず話すの!」
「何を?」
「会いたかった、とか」
理沙が考える。
「そのあと個室」
「早いって!」
彩香は両手を振った。
「可愛い方が、ここでは誰も来ないよって言うの」
「自分から?」
「うん。でも、ちょっと恥ずかしそうに」
「それで?」
私が続きを促す。
「背の高い方が、分かってて来たんだろって」
彩香の顔が、話しながら赤くなっていく。
「それで、壁に手をついて」
「壁は汚い」
真帆が言った。
「そこ?」
「描きたくない」
「じゃあ扉!」
「古い扉も汚い」
「真帆、現実的すぎる!」
「構図としては面白い」
「じゃあ描いて」
「それは描かない」
「なんで!」
「トイレだから」
真帆には、絵にしたいものと、見たいものと、描きたくないものの境界があった。
それはかなり細かく、本人以外にはよく分からない。
「でも、秘密の場所で二人きりはいい」
真帆が言った。
「まだ何もしてないのに、近い感じ」
「分かる!」
彩香が机を叩いた。
「それ、最高じゃん!」
「個室へ入ればもっと近い」
理沙が言った。
「理沙は本当にそれしかないの?」
「場所が男子トイレだから」
「理由になってないよ」
「自然な流れでしょう」
「どこが?」
理沙は、同人誌の上へ指を置いた。
「秘密を漏らした男子がいる」
「急に別の話になった」
「その男子が、約束を破る」
「何の約束?」
「中身を言わない約束」
「健太じゃん」
彩香が言った。
「健太は中身まで言ってない」
「では、別の男子」
「名前をつけないで」
「つけてない」
理沙は淡々と続けた。
「秘密を漏らした男子が、放課後に呼び出される」
「誰に?」
私が聞いた。
「一番知られたくなかった相手」
「恋愛になるんだ」
「当然」
「当然なんだ」
「個室へ連れていかれて、口を塞がれる」
彩香が小さく声を上げた。
「やばい!」
「手で?」
私が聞く。
理沙がこちらを見る。
「由佳は、どちらがいい?」
「どちらって?」
「手か、口か」
「待って。まだ呼び出されたところじゃない?」
「だから、呼び出したあと」
「早いよ」
「まだ服は脱いでない」
「基準がおかしい」
理沙は真顔だった。
彩香は鼻のあたりを押さえた。
「やばい、鼻血」
「出てない」
真帆が言った。
「気持ちの話!」
「紛らわしい」
「でも、絶対何かあるよ」
彩香は言った。
「健太、あんなに焦ってたし」
「男子の秘密」
私は呟いた。
「そうだ。誰か、卒業生なら知っているかも」
「じゃあ、私のお姉ちゃんに聞いてみる」
彩香が言った。
「彩香のお姉さん?」
「うん。うちのお姉ちゃんも青葉高校だったから」
「いつ聞くの?」
「帰ったら」
「健太が言ったことは伏せて」
理沙が念を押す。
「分かってる」
「男子トイレのことだけ聞く」
「分かってるって」
「不自然にならないように」
「理沙、私を何だと思ってるの?」
「話し始めると全部言う人」
「言わないよ!」
彩香は反論したが、少し自信がなさそうだった。
「聞いたことないって言われたら?」
私が言う。
「その方が怪しい」
理沙が即答した。
「どうして?」
「卒業生の女子も知らないなら、本当に男子だけで引き継いでいる可能性がある」
「引き継ぐって、部活みたい」
「口伝」
「急に伝統が出てきた」
「旧校舎に昔からあるなら、あり得る」
私はまた、願掛けの壁を想像した。
古い男子トイレ。
薄暗い奥。
誰かが書いた言葉。
それを見た男子たちは、何も言わずに次の学年へ残していく。
「それ、ありじゃない?」
私が言うと、真帆が顔を上げた。
「何が?」
「願掛けが代々続いてるの」
「何を願うの?」
「それはまだ分からないけど」
「恋愛」
彩香が言った。
「絶対、恋愛」
「どうして?」
「秘密にするなら恋愛でしょ」
「男子がそんな事するかなぁ」
理沙が言った。
彩香は少し考えた。
「なら、告白の場所。ほら、よくある校舎裏の桜の木とか同じ感じで」
彩香の目が、また遠くを見始めた。
「学校では普通にしてる二人が――」
「さっき聞いた」
「別の二人!」
「何人いるの、その学校」
「うちの学校!」
「それは知ってる」
私は笑った。
真帆は、スケッチブックへ新しい線を引いた。
さっきの椅子の二人とは違う。
細い窓と、その前に立つ二人の影だった。
「真帆、それ何?」
「構図だけ」
「男子トイレ?」
「まだ決めてない」
「見せて」
彩香が近づく。
真帆は今回は隠さなかった。
一人は窓の外を見ている。
もう一人は、その少し後ろにいる。
間には、手一つ分くらいの距離があった。
「触れそう」
私が言う。
「触れない」
「でも、このあと触る」
彩香が言う。
「そこまでは考えてない」
「絶対触るって!」
「それで、どこまでしたの?」
理沙が聞いた。
「まだ何も言ってない」
「もう同じ場所にはいる」
「だから?」
「十分でしょう」
「何が十分なの?」
理沙は答えず、絵を見つめた。
考えている顔だった。
たぶん、最短距離を探している。
「実物見たい」
真帆が言った。
三人で真帆を見る。
「今、何て?」
彩香が聞いた。
「場所」
「見たいの?」
「興味深い」
真帆は短く言った。
私たちの中で、真帆が自分から見たいと言うのは珍しかった。
絵にできそうなものがあるときだけ、少しだけ行動的になる。
「私も見たい!」
彩香がすぐに言う。
「絶対見たい」
「中身分からないよ」
私が言った。
「だから見たいんじゃん」
「健太には聞けない」
理沙が言う。
「聞いても言わないよ」
彩香が答えた。
「では、別の男子」
「誰に頼むの?」
「いない」
「いないんだ」
「そんなこと頼める男子、由佳にはいる?」
「いない」
「真帆」
「いない」
「彩香」
「健太以外には無理」
「なら、自分たちで見るしかない」
理沙が言った。
部屋が少し静かになった。
画面には、誰も予約していない映像が流れている。
テーブルの上では、氷がグラスの中で小さく鳴った。
「どうやって?」
私が聞く。
「それを考える」
理沙は当然のように答えた。
「行く前提なの?」
「見たいんでしょう」
「見たい」
真帆が言った。
「見たい!」
彩香も言う。
私は二人を見て、それから理沙を見た。
理沙はまだ、行くとは言っていない。
でも、もう方法を考えている顔だった。
「理沙は?」
「私は中身を確認したいだけ」
「それを見たいって言うんじゃない?」
「少し違う」
「どこが?」
理沙は答えなかった。
その代わり、歌本を自分の方へ引き寄せた。
「次、何歌う?」
「今そこで曲に戻る?」
「予約が切れてる」
「じゃあ入れて」
彩香が言った。
「そのあと作戦考えよう」
「作戦って言った」
私が笑う。
「だって、行くなら必要でしょ」
「誰も行くって決めてないよ」
「でも、行くんでしょ?」
彩香は、もう完全にそう思っている顔だった。
真帆も否定しなかった。
理沙は歌本をめくりながら言った。
「まず、健太にもう一度聞く」
「絶対言わないって」
「確認するだけ」
「何を?」
「本当に言わないか」
「同じでしょ」
「次に、ほかの男子へ頼めるか検討する」
「無理だよ」
「検討してから却下する」
「理沙、こういうときだけ生徒会っぽい」
「いつも生徒会です」
理沙が曲番号を入力した。
画面に予約完了の表示が出る。
イントロが始まるまでの短い間、私たちは誰も、やめようとは言わなかった。
少し前まで、存在すら知らなかった男子トイレだった。
中に何があるかも分からない。
願掛けかもしれない。
秘密の待ち合わせ場所かもしれない。
ただの落書きだらけの壁かもしれない。
理沙の言うようなお仕置き場所である可能性は、たぶんかなり低い。
それでも、話せば話すほど、そこには何かがあるように思えてきた。
見なくても困らない。
知らなくても卒業できる。
それなのに、私たちはもう、知らないままでいる気がなかった。
曲が始まり、理沙がマイクを取った。
彩香は歌い出す理沙の横で、私へ顔を寄せた。
「由佳」
「何?」
「いつ行く?」
私は笑った。
「まず、どうやって行くかじゃない?」
彩香も笑った。
その時点で、行かないという話は、もうどこにも残っていなかった。




