第2話 いつもの四人
カラオケパルの三〇二号室は、四人で使うには少し狭かった。
テーブルの上には、空になりかけたポテトの皿と、結露したグラスと、分厚い歌本。それから、美紀姉ちゃんから借りた同人誌が一冊、裏返しに置かれていた。
真帆はソファの端でスケッチブックを膝に載せている。
理沙はマイクを持ったまま、同人誌を読んでいた。
彩香は画面の前に立って、歌い終えたばかりだった。
「気持ちいい!」
彩香はマイクを握ったまま、ソファへ倒れ込んだ。
学校で見る彩香は、こんなふうにアニソンを歌わない。
女子バレー部の友達や、いつもの明るいグループとカラオケへ行くときは、流行っている曲を歌うらしい。
私も、文芸部にいた頃の友達と行くなら、相手が知っていそうな曲を選んでいた。
理沙は、そもそも学校で歌を歌うようには見えなかった。
真帆は何を歌っても声が小さい。
けれど、ここでは誰も遠慮しなかった。
彩香が歌い終われば、理沙が真顔で主題歌の二番を入れ、私が少年漫画の人気アニメの曲を予約し、真帆は聞かれてもいないのにエンディング曲を選んだ。
「次、由佳」
理沙が同人誌から目を上げずに言った。
「分かってる」
画面には前奏が始まっていた。
私は立ち上がり、マイクを受け取った。
「それ、読みながら言う?」
「耳は空いてる」
「目は完全にそっちだけど」
理沙はページをめくった。
「歌詞は覚えてるでしょう」
「覚えてるけど」
曲が始まったので歌った。
サビに入る頃には彩香も立ち上がり、勝手にハモり始めた。ハモれているかどうかは分からない。本人が気持ちよさそうなので、たぶん問題はなかった。
真帆は歌わず、鉛筆を動かしていた。
歌い終わると、彩香が同人誌へ手を伸ばした。
「次、私」
「さっき読んだでしょ」
理沙が離さない。
「もう一回見たい場面があるの」
「どこ?」
「言わなくても分かるでしょ」
「分からない」
彩香は理沙の隣へ座り、開いているページを覗き込んだ。
数秒後、耳まで赤くなった。
「そこじゃない!」
「何が?」
「そこまで進めなくていいの!」
「自然な流れでしょう」
「早いって!」
私はテーブルへマイクを置いた。
「彩香が見たいの、もう少し前じゃない?」
ページを何枚か戻す。
可愛い顔をした受けが、背の高い男に手首をつかまれていた。
逃げようとしているわけではない。
恥ずかしそうに目を伏せながら、口元だけが少し笑っている。
攻めの方は、明らかに機嫌が悪い。受けがほかの男と話していたのが気に入らないらしい。
彩香はページへ顔を近づけた。
「待って、嬉しいんだ!」
「そう書いてあるよ」
理沙が言った。
「そうじゃなくて!」
彩香が同人誌を指さす。
「この子、困ってるけど、嫌じゃないんだよ。むしろ、こんなに嫉妬されて嬉しいんだ!」
「だから、そのあと――」
「理沙は黙ってて!」
「まだ何も言ってない」
言おうとしていた。
彩香は、受けの表情をもう一度見た。
「無理、好き!」
学校では、男子からも女子からも人気がある。
試合では大声で指示を出し、後輩を引っ張り、廊下ではいつも誰かに声をかけられている。
その彩香が、紙の上の男の子一人に顔を真っ赤にしている。
私たちは、その落差を見るのがかなり好きだった。
「やっぱり、美紀さんすごい」
彩香が言った。
「この本を選んだ美紀さんがすごい」
「姉ちゃん、自分が読み終わったから貸しただけだよ」
「それでもすごい」
「返すとき、彩香が一番感謝してたって言っておく」
「絶対言って」
「でも、どの場面が好きだったかも伝えるよ」
「それは言わないで!」
彩香が同人誌を閉じた。
閉じても、顔は赤いままだった。
私が美紀姉ちゃんから本を借りてくると、三人はだいたい同じくらいありがたがった。
私たちには、欲しい本を見つけたからといって、すぐ買いに行ける店もなかった。
遠くの大きな街まで出れば専門店があるらしい、という程度だった。
交通費を使い、本代を使い、家族に見つからないよう持ち帰ることまで考えると、高校生にはなかなか大仕事だった。
通販も、家に届けば終わりではない。
誰が受け取るのかという問題がある。
美紀姉ちゃんの本棚は、私たちにとって小さな図書館みたいなものだった。
本人には、そこまで重大な役目を担っている自覚はなかったと思う。
「真帆、何描いてるの?」
彩香が立ち上がり、真帆の隣へ移動した。
真帆はスケッチブックを少し自分側へ寄せた。
「まだ途中」
「見せて」
「途中だから」
「ちょっとだけ」
「近い」
私も反対側から覗いた。
男子が二人描かれていた。
一人は椅子に座っている。
もう一人は、その後ろに立っていた。
立っている方の手が、椅子の背へ置かれている。座っている方は振り返っているが、目は合っていない。
「いいじゃん」
彩香が言った。
「この立ってる方、絶対スパダリ」
「そこまでは考えてない」
「でも、座ってる方のこと好きでしょ」
「それは分かる」
「分かるんだ」
真帆は鉛筆を動かした。
座っている男のシャツの襟元に、短い線が足された。
少しだけ乱れて見える。
彩香が息をのんだ。
「無理、好き!」
「まだ何もしてないよ」
「してないのがいいの!」
理沙もスケッチブックを覗いた。
「このあと、鍵を閉める」
「閉めない」
真帆が即答した。
「後ろにいる方が、椅子を回す」
「回さない」
「机の上でもいい」
「それは描かない」
「私は描けとは言ってない。先を考えてるだけ」
「先が早い」
私は二人の絵を見た。
立っている方は、座っている方へ何か言おうとしている。
でも、言えない。
座っている方は、背後にいる相手が離れないことを知っている。
「待って。じゃあ、この二人って――」
真帆が鉛筆を止めた。
「何」
「昔、一回だけ喧嘩してるんじゃない?」
「どうして?」
「立ってる方は、近づきたいのに触ってない。座ってる方も振り返ってるのに、目を合わせてないから」
彩香が絵を見直した。
「でも、嫌いじゃないよね」
「嫌いなら、こんな近くにいさせないでしょ」
「待って、じゃあ仲直りする直前?」
「それ、最高じゃん!」
「仲直りしたあと、どこまでしたの?」
理沙が聞いた。
「まだ仲直りしてない」
「するんでしょう」
「するけど」
「なら、そのあとでいい」
「よくないよ」
私は真帆を見た。
「どう?」
真帆はしばらく絵を眺めた。
「そこまでは考えてない」
「でも?」
「……喧嘩はしてるかも」
「ほら!」
「由佳、すごい!」
「それで、どこまでしたの?」
「理沙は早いって!」
理沙は本気で分からないという顔をした。
「仲直りしたなら、自然な流れでしょう」
「まだ仲直りの方法も決めてない」
「ベッドで話し合えばいい」
「話し合わないでしょ、それ」
「話すかもしれない」
「何を?」
理沙は少し考えた。
「好き、とか」
「そこだけ急に純愛に戻るんだ」
彩香が吹き出した。
真帆も、ほんの少しだけ笑った。
こういうとき、私たちは誰も譲らなかった。
真帆は一枚の絵から先へ進ませたくない。
彩香は、受けが愛されていると分かるまで見届けたい。
理沙は、見届けたあとすぐ脱がせたい。
私は、その全部がつながる話を考えたくなる。
学校で、四人がこうして一緒にいることはなかった。
私と真帆は、たいてい一緒にいた。
彩香とは廊下ですれ違えば、目が合うくらいだった。向こうにバレー部の友達がいれば、声はかけない。
理沙は昼休みに一度だけ現れて、
「その二人、もう付き合ってるの?」
と聞き、答えを待たずに図書館へ戻るような子だった。
誰にも決められたわけではない。
隠すための規則を作ったわけでもない。
ただ、学校ではそれぞれの場所があって、カラオケパルへ来ると四人になった。
それだけだった。
画面に、理沙が予約していた曲のタイトルが出た。
「あ、始まる」
理沙は何事もなかったように立ち上がった。
さっきまでベッドの話をしていた人とは思えない真面目な顔で、マイクを持つ。
イントロが流れた。
「彩香、次入れて」
「何歌う?」
「さっきの続き」
「もう一回?」
「二番をちゃんと歌ってない」
「歌ったよ」
「彩香が横で大声出すから聞こえなかった」
「ハモってたの!」
「合ってなかった」
「ひどい!」
二人が言い合っている間、真帆はまた鉛筆を動かしていた。
私は同人誌を開き直した。
今日は、あと何曲歌えるだろう。
姉ちゃんへ返す前に、もう一度見ておきたいページもある。
真帆の絵の二人についても、まだ決めなければならないことが多かった。
付き合う前なのか。
付き合ったあとに喧嘩したのか。
立っている方は何を謝るのか。
座っている方は、許す前にどんな顔をするのか。
理沙が歌い始めた。
普段の話し声より、ずっと大きかった。
一番が終わる頃、彩香がまた勝手にハモり始める。
私は笑いながら、次の曲を歌本で探した。
曲が終わると、彩香がマイクをテーブルへ置いた。
「そういえば、知ってる?」
「何を?」
私が聞いた。
彩香は、閉じた同人誌の上へ両手を置いた。
「学校の旧校舎に、男子しか知らない場所があるんだって」




