第1話 真帆の本
カフェ・リーフのテラス席で、私は本を一冊、テーブルの上に置いた。
『君の手に触れる前に』
表紙には、男の子が二人いた。
一人は窓際に座り、もう一人はその机へ手をついている。顔は近い。けれど、唇も手も触れていない。
触れていないのに、どう見ても好きだった。
私はアイスコーヒーのストローをくわえたまま、しばらく表紙を眺めた。
真帆は昔から、こういう絵を描く。
大げさに抱き締めたり、壁へ押しつけたりしなくても、視線と指先だけで、二人の間に何かあると分からせる。
表紙の下には、佐藤真帆、と印刷されていた。
本人の名前なのに、活字になっていると少し不思議だった。
初の商業単行本。
発売日に買うと約束していたので、私は昼休みに会社の近くの書店へ寄った。店員に見せる必要もないのに、レジへ持っていく間、表紙を内側へ向けてしまった。
長年の習慣は、世の中が多少変わったくらいでは消えないらしい。
もっとも、今は隠さなければならないわけでもない。
私は普通の会社員で、休日や仕事のあとに小説投稿サイトへBL小説を載せている。
たまに感想が来る。数字が少し増えると嬉しい。増えなくても書く。
商業作家になりたいと思ったことはない。
締め切りも売上もないところで、好きな二人を好きなように幸せにする。そのくらいの距離が、私にはちょうどいい。
鞄の中で携帯電話が震えた。
画面を見ると、真帆からだった。
〈もう着く〉
短い。
高校生の頃から、真帆のメールはだいたい短かった。
私は〈テラスにいる〉と返して、単行本をもう一度開いた。
最初のページには、制服姿の二人がいた。
同じ教室にいるのに、別々の友人と話している。片方だけが、もう片方を見ていた。
「待って。じゃあ、この二人って――」
口に出してから、私は周囲を見た。
隣の席では、買い物帰りらしい女性二人がケーキを分けている。誰もこちらを気にしていなかった。
一人で漫画へ話しかける会社員は、少し気にした方がいいのかもしれない。
けれど、仕方がない。
この二人はたぶん、まだ付き合っていない。
視線を向けている方は、自分の気持ちにもう気づいている。見られている方は気づいていないふりをしているが、本当はずっと前から分かっている。
たぶん、二人の間には一度、何かあった。
夏休みの終わりとか、雨の日の帰り道とか。
私はページをめくった。
次の見開きでは、二人の手が机の下で近づいていた。
「それ、ありじゃない?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
真帆に言えば、たぶん返事は決まっている。
そこまでは考えてない。
昔からそうだった。
考えていないと言いながら、否定はしない。こちらが調子に乗ると、それは描かない、と切る。たまに黙り込み、少ししてから、……それ、いい、と言う。
その一言が出たとき、私たちは勝ったような気になった。
私たち、と考えて、時計を見る。
待ち合わせの時間まで、あと五分。
今日は真帆だけではない。
彩香と理沙も来る。
四人で会うのは久しぶりだった。
真帆とは、今でもときどき会う。新しい絵を見せてもらったり、私の書いたものを読んでもらったりする。
彩香と理沙とは、年に何度か連絡を取る程度だ。
誰かが結婚したとき。転職したとき。思い出したように同じ本を読んだとき。
連絡先は残っているのに、予定はなかなか合わない。
大人になると、会いたいという気持ちと、実際に会える日は別の場所にある。
テラスの脇を、制服姿の女の子たちが通り過ぎた。
三人で笑いながら、駅の方へ歩いていく。
私は真帆の本へ視線を戻した。
制服の袖。
机の上のノート。
触れそうで触れない手。
真帆が高校生の頃、よく使っていたスケッチブックを思い出した。
授業の合間や、放課後や、カラオケの薄暗い部屋で、真帆は名前のない男の子を二人描いた。
その絵を見るたび、私は勝手に話を作った。
どうして二人が出会ったのか。
どちらが先に好きになったのか。
喧嘩をしたら、どちらが謝るのか。
そのあと、どこまでしたのか。
最後の質問だけは、たいてい理沙だった。
あの頃、私たち四人がそろって話せる場所は、ほとんどカラオケボックスしかなかった。
私は本を閉じた。
表紙の二人は、やはりまだ触れていなかった。
けれど、その距離を見ているうちに、駅前のカラオケパルの狭い部屋と、テーブルの上に置かれた一冊の同人誌と、真帆の鉛筆が紙を擦る音が、順番に戻ってきた。
三人の声も、テラスを行き交う人の気配も、少しずつ遠くなる。
代わりに、あの頃のカラオケパルの薄暗い部屋が、はっきりと浮かんできた。
あの夏も、私たちは四人で集まっていた。




