恭介
2
俺はスマホのアラームで目を覚ました。もう10時半だ。11時からバイトの時間だ。顔を洗い、歯ブラシを口に突っ込みながら着替える。焼きあがったトーストをくわえ、ボロアパートの階段を降りる。原付でバイト先まで5分だが、キーを回すとガソリンがあと1キロしかない。ちっ、昨日入れとくんだった。
「恭介!乗ってく?」
「直子。乗せてくれ」
勢いで直子の自転車の後ろに飛び乗った。自転車はバランスを崩しそうになり、直子の腰に手を回す。腰は驚くほど細かった。今にも壊れてしまいそうだ。
「恭介が重い〜」
「鍛えてるからな」
「脂肪でしょ」
「失礼な」
ふらつく自転車に合わせて直子の腰をギュッと掴む。柔軟剤の匂いがした。その奥に混じる甘い香りに一瞬頭が真っ白になる。
「きゃ!ヘンタイ降りて!」
「いいから急げ」
「へ〜い」
やがて、バイト先のレストランに着いた。10時57分。何とか間に合った。直子とともにスタッフルームに入った。店長の田中がパソコンをカタカタと鳴らしている。
「おはようございます」
「おはよー。10分前には来てくれると、こちらとしては安心なんだけどな」
「すいません」
「ま、来たんだし、いっか!ほらほら早く着替えな〜」
俺と直子は別々の着替え室で着替えた。直子はフロアだから注文機械をポチポチしている。
「あ、季節の鍋セット、今日からですか?」
「あ、うん。恭介はキッチンだから作り方覚えろよー」
「ウッス」
「さぁ、散った散った!」
俺はキッチンに入りエプロンの紐をキュッと絞める。モーニングの対応に当たっていた主婦とハイタッチして持ち場を変わる。
ピー!
早速、直子が注文を取ってきた。メニューは季節の鍋セット!?やべえ作り方知らん。
壁に貼ってある手順通りに料理を進める。よし、出来た。
「直子!4卓、季節の鍋セット出来た!」
「はいよぉ〜!」
直子が料理をテーブルへ持っていく。やがて戻ってくる。
「早速、新メニュー入ったね〜」
「そうだな、俺も昼休憩の時食ってみるわ」
「私もそうしようかしら。既存メニューは一通り食べたし」
ピンポーン!
「私行くね。今のうちに新メニューマスターしときなさいよ?」
「うるせえな」
直子はフロアへ出ていった。ピー!注文が入る。また季節の鍋セットかよ!?
今度も手順通りに進める。店長の田中がキッチンに顔を出した。
「恭介」
「なんスか」
「揚げナスが2人前余ってるんだけど、これなにかな?」
「え!?」
「お前ナス入れ忘れたな?!」
「す、すいません…!」
「ちょっと客に説明してくるわ」
店長の田中はフロアへ出ていく。数分後。田中が帰ってきた。
「お客さん、怒ってなかったよ。だけど、次からは忘れないでね、だって」
「わかりました…」
直子が横でニヤニヤしている。
「あんた揚げナス忘れるってどういうことよ!?お母さん心配したじゃない」
「いつから俺の母親になったんだ、お前は」
昼の注文ラッシュを終え、俺と直子は15時に昼休憩をとった。俺は季節の鍋セットを頼んだ。直子も頼む。
味はまあまあというところだった。直子もまあまあね、と言っている。
「俺思ったんだけど」
「何かしら?」
「直子の手料理の方が美味いかも」
「気づいちゃった?」
「なんか今日、直子の料理食べたい。ウチ泊まってけよ」
「私、明日もシフト入ってるんだけど」
「着替え取りに帰ればいいだろ」
「そう?ならお邪魔しようかしら」
「コンドームまだあったっけ?」
「私が買ってくわ」
俺と直子は近所の大学に通う、大学生だ。直子とは学部が違うが、このレストランで知り合ってからよくウチに泊まりに来ている。直子は社会福祉学部で介護士を目指している。俺は文学部で脚本家を目指している。直子と一緒に居る時間は悪くない。このまま関係が続けば結婚したいと思っている。それくらい直子はしっかりした人なのだ。
バイトは21時に終わった。直子と2人で、日の沈んだ真っ暗な夜道を帰る。初夏の気温も日中は暑いが、夜になると気持ちがいい。
直子がつぶやく。「あの、さ…」
「どうした?」
「私たちって、付き合ってるの?」
「付き合ってるんじゃないか?学生時代みたいに、付き合って下さい!って言葉ではなかなか言わないだろ」
「そう…」
「何か引っかかることがあるのか?」
「妊娠したんだよね…」
「誰の子供?」
「恭介しかいないじゃん!」
「いや、俺は直子が他の男とセックスしてても驚かない」
「恭介だけだよ…」
俺は自分の子供ができたという事実を受け入れられなかった。いや、受け入れたくなかった。
俺の中に妙な違和感みたいなものが芽生えた。
「産むのか?」
「恭介が良いって言うなら…」
俺は昔から思ってることがあった。
「直子。俺たちにはまだ早いよ。ちゃんと就職先が決まってから子供作ろう」
「恭介はそう言うと思ってた」
「なぁ、今日はお泊まりは無しにしよう。中絶についてよく調べよう」
俺のアパートの前に着いた。
「恭介、またね。恭介のこと愛してる」
「俺もだよ」
直子は夜道に消えていった。
俺は直子を見送った後、部屋へ戻った。
そして、タバコに火を付けた。モクモクと上がる煙は俺の行き場のない気分のように、現れては雲散霧消した。フィルターを吸うとジリジリとタバコ葉が燃え、その度にタバコ葉は灰へと変わっていった。
人間も同じことでは無いのか?受精し、子供が生まれ、年老いて死んでいく。まさに生死の連鎖ではないか。タバコ葉が灰に変わることとなにが違いがあるのか?
灰皿に灰を落とした。灰皿に灰を落とすという行為自体大したことではない。しかし、灰皿には灰が落ちたという結果が生まれる。その行為には果たして意味はあるのか?答えはイエスとも言えるしノーとも言える。それが正しいか否かを決めるのはあるいは喫煙者か非喫煙者という違いかもしれない。非喫煙者は頭ごなしに無意味と決めつけるだろうし、喫煙者は、ああ、掃除しなくてはと思うかもしれない。
タバコを根元まで吸った。俺はコーヒーを入れることにした。コーヒーミルは親父からもらったもの。喫茶店を営んでいる父親から新鮮なコーヒー豆をもらい、手動ミルでゴリゴリ豆を挽くのだ。やがて漂ってくる挽きたての豆の匂い。この匂いだけはニコチンも敵わないと俺は思っている。なんともギルティな香りだ。俺は豆を挽くという行為について考える。ミルを回しているという行為には意味があるのだろうか?回すごとに細粒化されていくコーヒー豆。切断された豆からは何とも言えない香りが立ち込める。俺はコーヒーを入れた。コーヒーから上がる蒸気を眺めて少し落ち着いた。
新しくタバコに火をつける。今度は淹れたてのコーヒーがお供だ。コーヒーはいい香りが鼻をぬけて身体中に染み渡る。タバコもより一段美味くなった気がする。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。俺はふと直子のことが心配になった。
直子は事故に巻き込まれていないだろうか?
そんな不安が頭をよぎる。心配になって直子に電話をかけた。
「どうしたの?」
俺は直子が無事なことに安心した。
「いや、なんでもないんだ」
「やっぱり産んでほしい?」
「そのことについてなんだけど、1度腰を据えて話し合わないか?」
「もちろんいいわよ」
「ありがとう。じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ。温かくして寝てね」
「俺のオカンか、お前は」
電話は切れた。1度腰を据えて話そうと言ったけど、果たして俺はそれを望んでいるのだろうか?
俺は外へ散歩に出た。もう救急車の音はしなくて梅雨の夜は半袖半ズボンでも心地よかった。
都会の夜は、様々な人がうごめいていて、へびのように弱者を喰らっていた。俺はネオン街へ足を踏み入れた。男性にチラシを掴まされた。90分25000円と書いてある。俺はそのままコンビニで3万円おろして店へと向かった。ネバーランド、と書いてあった。受付でチラシを見せるとガタイの良い男性が愛想良く応対してくれた。個室へ案内されると、やがて1人の女性がやってきた。綺麗な人だ。
「あんずです」
「あんずさん。俺こういうところ初めてで」
「若いわね。彼女いないの?」
「彼女が妊娠したんです」
「あら、おめでとう。名前はもう決めたの?」
「彼女には堕ろしてもらおうと思って」
「なんで?」
なんで?そんなの俺にもわからない。
「まあ、俺の話はここではいいですよ」
「わかったわ、脱いで」
俺は服を脱いだ。あんずさんも服を脱いだ。気づいたが、あんずさんは肩にお花のタトゥーが入っていた。
「タトゥーですか?」
「そうよ」
「なんか意味はあるんですか?」
「これは蓮の花。旦那が蓮っていう名前なのよ」
「結婚してるんですか?」
「もう死んだわ」
「そうですか…。蓮さんの存在は大切でしたか?」
「どうかしら、高校から付き合ってたから空気みたいな存在よ」
俺と同じだ。直子とは高校から付き合いが続いている。なら。
「子供はいないんですか?」
「いるわよ。絶賛シングルマザー中よ」
俺は沈黙した。
「あんずさん、俺帰ります。あ、お金はちゃんと払います」
「大切なもの、気づいたみたいね」
「あんずさんに会えて良かったです」
「わたしの話、参考になったかしら?」
「ありがとうございます」
俺は服を着て店を出た。受付の男性はキョトンとしていたが、それも気にしない。とはいえ、足取りはまだ重い。俺は家に帰って夢のない睡眠をとった。




