9.帰りたい
エミリアが目覚めると、ルーファスの姿は無かった。裸だが上掛けを掛けて眠っていたので、彼が掛けてくれたのだろうと予測する。
サイドボードには身体を拭いた後のタオルが置いてある。見れば、身体がべたついておらず清潔になっている。これもルーファスがしてくれたのだろうか。
王子という身分の人に申し訳ないな、と考えてから、そもそもその原因を作ったのはルーファスだと思い当たる。
酷いことをされたのだ。取り返しのつかない事をされてしまった。
とにかく、着替えて誰かに会わないと。そう思って起き上がろうとしたが、全身が痛くてなかなか起き上がれない。
「っ……」
動けない己が情けなくて、これからの不安や様々な想いがない交ぜになって涙が零れた。
(ルーファス、どうして……)
でも、彼を憎んだり、嫌いだったりする訳ではない。未婚女性として一番大事な物を奪われた筈なのに、どうしてこんな風に思えるのか不思議だった。
「エミリアさま、お茶は如何でしょう」
「先ほども頂いたばかりなので、今は要らないわ」
「それでは退屈しのぎにゲームや本は如何でしょう。遊戯室では様々なボードゲームの盤上遊戯や、簡単な球技などで遊べるようになっています」
「そうね……」
「図書室もございます。様々な種類の本の用意がございます。見聞を広めるのにぴったりです」
「………………」
この離宮では、何もかもが至れり尽くせりだった。
食事の度にメニューを尋ねられ、完全な給仕をされる。他の時間でも何でも希望が通る。
家に帰りたい、という願い以外は。
外出は、ルーファスと護衛と一緒なら良いと言われたが、まだその機会は無かった。
エミリアがこの離宮にやって来てから、五日ほどが経っていた。
ルーファスは忙しいようで、ごく短い時間食事やお茶を共にする時にだけ会えるが、それ以外は離宮に居ない。
忙しい中、エミリアの顔を見る為に来てくれるのは嬉しいが、話す機会は余り無かった。
『家に帰りたいの、帰して欲しいの』
そう申し出たエミリアだったが、ルーファスは首を横に振った。
『今は駄目だ、事情があってそれは出来ない。今度時間がある時に、ゆっくり説明する』
そう言われてしまうと、しつこくは尋ねられない。踏みこんだ会話は出来ずに、今日は何をしたとか今まであった他愛のない話などをする事になる。
あんな事をされた相手に我ながら信じられないが、それはそれで楽しかった。
ルーファスはエミリアを気遣ってくれ、不快な目に合さないよう心を砕いてくれていたし、それは侍女や使用人たちの態度となって現れる。誰もがエミリアを下にも置かない扱いで丁重に仕えてくれていた。
けれど、思い返してみると、今までのルーファスの言動に疑問や不安を抱いた事は何度かある筈なのだ。エミリアには、それのどこがどうおかしいかという言語化が出来ない。もどかしいのだが、不審な点はある筈なのに上手く整理出来ないのだ。
今はその不審な所に目を向けないで、空々しい穏やかな時間を楽しんでいるに過ぎない。それは何だか、薄氷の上を渡るようなじわじわとした不安に苛まれる。
でも、説明はまた今度という忙しい相手に無理矢理今すぐ話せと迫ったところで、きちんと教えてもらえやしないだろう。とにかく、ルーファスの時間が出来た時に話を聞くしかないと己に言い聞かせる。不安に負けないよう心を強く持ち続けて。
「エミリアさま、それでは中庭を散策されるのは如何でしょう。季節の花が咲いておりますし、東屋で外の空気に触れるのもよろしいのでは」
「そう、ね……」
物思いに耽っていると、新しい提案を侍女がしてくれた。
確かに天気は良いし散歩も良いだろうが、それをすると侍女や騎士がぞろぞろと着いてきて、護衛だ何だと世話を焼かれる事になってしまう。一人で大丈夫だと言っても、そういう訳にはいかないと困らせるだけだった。
この離宮という別世界ではそういうものだと、エミリアは諦めていた。
部屋から出て散歩はしたいが、やはり仰々しいのは苦手だ。エミリアは首を横に振った。
「今日は、離宮の中を見て回りたいわ。一人で大丈夫よ」
この離宮の中は好きに見て回っていいと、ルーファスに許しを得ていた。
『まあ見られて少し困るような物もあるが、何処に行ってはいけないと禁止するつもりはない。この離宮の中は好きに見て回っても良いよ』
その旨はこの離宮に勤める人たちにも伝わっている筈だ。エミリアはそう思って言ったが、侍女は首を横に振った。
「申し訳ございませんが、エミリアさまを一人にする訳には参りません。どうかお供させてくださいませ」
「ええ……」
そう言われると、どうしても一人になりたいと言い張る訳にもいかない。エミリアは離宮の中を案内され、豪華な部屋の数々を見せられた。
その中でエミリアが一番興味を惹かれたのは、最上部にある展望台だった。ドーム上の屋根の下から、周囲の景色が見渡せる。高さがあるので、城内の建物は勿論、城壁の向こうも見える。
(あっちがエルトワ王国。荘園の方角だわ)
勿論、我が家が見えるわけではない。山々に阻まれ、祖国は何も見えない。しかし、その方向を見ているというだけでも望郷の心は騒ぎ、エミリアをざわつかせた。
やはり、帰りたい。
早くルーファスと話をして、帰らせてもらうようにしよう。この立場もよく分からない、宙ぶらりんな状況はいくら皆に大切にされても心苦しかった。
エミリアの焦りのような物を見てか、侍女が声をかける。
「エミリアさま、風が冷たくお身体が冷えるでしょう。そろそろお戻りになられては」
「……そうね」
こんなに気遣われ、申し訳ないとさえ思う。
王城で勤めるような人は出自が正しく優秀で、身分もあるのが常だと聞く。きっと侍女や侍従の人たちもエミリアより高位な家柄の出身だろう。
自分で言うのもなんだが、こんな他国の田舎娘に傅くのは皆、心中嫌なのではないだろうか。けれど彼女たちは、内心どう思っているのかを態度としては一切見せず、礼儀正しい。
教育が行き届いているのは、ルーファスの威光がしっかりとした物だからだろう。
そんな事を思い、素直に展望台から降りる。侍女たちに手間をかけさせるのは申し訳ないと、エミリアは部屋で休むことにした。
「もういいわ、どうもありがとう」
「いえ、そのような。お礼を言われるようなことは何もしておりません」
恐らく二十代の、いつも有能でしっかりした侍女の女性たちは、皆一様にエミリアがお礼を言うと動揺したり口を濁したり、顔を見合わせてから頭を下げたりする。
数日過ごしていると、侍女の中でもよく傍に着いてくれる人のことは覚える。
今日の世話係であるホリーも、そうだった。エミリアがお礼を言うと居心地が悪そうな顔になっている。彼女が微笑んだり、気安く話すことは未だ一度も無かった。
此処での常識では、何も言わずにごく当然のように奉仕を受けるのが常のようだ。けれど、エミリアにはそれは余りにも心苦しい。
この離宮での暮らしは、やはり自分には合わないのだろう。溜息をついて、手持無沙汰で部屋に居て周囲を見回す。ふと、この部屋の続き部屋には行っていない事を思い出した。
エミリアに与えられている主寝室は、元はルーファスの部屋と聞いていた。しかし今は、深夜のごく短い時間に少し横になる程度ですぐ何処かに行ってしまう。
以前の初夜から今日まで、さすがにエミリアと同衾していないが、寝る間も惜しんで何処かで忙しくしている事は確かだった。
その彼の主寝室の続き部屋には洗面所とバスルームが備え付けられているが、その更に奥に扉があって部屋があるようだ。ひょっとすると、ルーファスの私室かもしれない。普段のエミリアなら人の部屋に勝手に入るなど躊躇するが、何処を見ても良いとは許されている。ルーファスの事を知りたい、彼が何故思い詰めていて何を考えているか手がかりになるかもしれない、という気持ちを抑えられなかった。
何も悪い事をしている訳では無い、ただ寝ている部屋に繋がっている部屋を確認しておくだけだ、と己に言い聞かせ洗面所へと移動する。
洗面所の奥のドアノブに手をかけると、あっさりと扉は開いた。
扉の向こう側は書斎だった。




