21.付け焼刃の特訓
舞踏会への備えは様々な学習を必要とした。
マナー、礼儀の類を基本として王子の婚約者としての立ち位置、立ち振る舞い方。それは立ち方や歩き方、手足の動かし方にまで及んだ。
更に王国の歴史や最近の王族の動向、出席者の人間関係に派閥……、覚えなければいけない事が多すぎて頭が割れそうだった。
「今日はこれくらいに致しましょう」
講師の先生は五十がらみの凛とした老婦人だった。白髪ながら豊かな髪を結いあげ、背筋がぴんと伸びている。エミリアは彼女が姿勢を崩しだらけた姿をしているのを一度も見たことがない。
油断していると姿勢が悪くなり、びしばし注意を受けるエミリアとしては尊敬の念を抱くしかない。
「はい。あの、本当にありがとうございました。急な話なのにお引き受けくださって感謝しています」
突然決まった舞踏会に合わせ、急造淑女にならなければいけないエミリアの為に来てくれている高級家庭教師の先生だ。頭を下げたエミリアにも、全く意を介さずすぐさま注意だ。
「簡単に頭を下げてはいけません。軽んじられるからです。時には高飛車だと思われる態度も、貴人としての処世術なのです」
「は、はい……」
「使用人にへりくだるのも、必要外に有難がるのもいけません。毅然とし、弱みを見せぬ主として振る舞うように」
それこそ、ルーファスのやり方だった。やはり、彼は貴人として当然の振る舞いをしていただけなのだ。
でもエミリアにとっては、それはどうなのだろうか、と思ってしまう時がある。これが価値観の違いという物なのだろう。そして此処では、全てにおいてルーファスが正しく、エミリアは彼らに合わせなければいけない。
「善処いたします」
明言せず、何か請われた時の返事はこれで良い筈だ。エミリアの言葉に、老婦人は頷いた。
「よろしいでしょう。明日までにこの書類に目を通しておくように」
書類と言っても、分厚い辞典並みの束だ。これらに様々な人物、人間関係、近年起こった出来事などが記されている。エミリアはこれに関しては善処するとも言えず、静かな溜息を吐いて老婦人を見送った。
明日までの宿題を出されてしまったので、エミリアは部屋に籠って書類を捲っていた。同じような名前があると誰が誰やら分からないし、やはり紙の上での文字を追うだけでは把握出来ない。
ほぼ覚える事が出来ず、飛ばし飛ばし見て、頭がぼんやりして来た時にノックの音が響いた。
「失礼いたします、お茶をお持ちしました」
ホリーの声だ。
「どうぞ、入って」
溜息を我慢してホリーを迎え入れ、お茶を有難く頂く。それでもやっぱり、深い吐息になって紙を横に置いてしまう。
エミリアの様子を見て、ホリーは気遣うように言ってくれた。
「厳しい講習でしたでしょう。甘い物は頭を休める作用もありますので、どうぞご休憩の際にお取りください」
見れば、お茶の他に心づくしのお茶菓子もある。
「まあ、ありがとう。あの先生は、厳しいと有名な方なの?」
エミリアがふと思いついた事を尋ねると、ホリーはしまったとばかりの表情になり、すぐ真顔を保ってしまった。
「長らく王宮勤めをしておりますと、出入りする者の人となりはそれとなく耳に入りますので」
「そうね」
最近は、ホリーも少しは打ち解けて来てくれているような気がしていたが、やはり気軽に噂話をするまでの仲にはなれないようだ。
この間、エミリアが王の元に連れていかれた時には彼女が必死に走ってルーファスに知らせてくれたのだ。同じ城内とはいえ、エミリアたちは馬車で移動した距離だ。なかなかに遠い其処まで駆けてくれたのは、彼女がエミリアの事を親身に思ってくれたに違いない。
あの後、エミリアは心からお礼を言って感謝したのだが、ホリーは特段感激することも、恩着せがましい話をすることもなく普通に頭を下げただけだった。それでも、エミリアが手を握ってありがとうと言うと、照れたような困ったような表情にはなっていたが。
もしジェシーなら、あの時どう大変だったか、という話を延々と繰り返し、話を膨らますことだろう。実家の荘園でずっと世話をしていてくれていたジェシーが、他愛の無い話を聞いていなくても教えてくれたのが懐かしい。
そう考えていた時に、エミリアはふっと思いついた。
「ねえホリー。それとなく知っているなら、教えて欲しいのだけれど。この此処に書いてあるガードナー伯と、此処に出てくるガードナーさんは別の人よね?」
「ああ、はい。そうです。三代程前までは分家で親交もあったようですが、今は没交渉のようですね。歴史が長い家では、そういう事も少なくありません」
「ねえ、それならお願い。此処に書いてあることをかいつまんで教えてもらえない?」
「え……」
「お願い! ホリー、特別なお礼はするし、希望があるなら叶えてもらうようルーファスに口添えするから、どうかお願いします!」
縋り付かんばかりのエミリアに、ホリーは一歩退いて言った。
「お、お止めください! わたくしがエミリアさまに何かねだったとなれば、厳罰があるのは必至。分からない事があれば教えますから、頭を上げてください」
「本当? 良かったわ! 助かったわ、一人じゃどうしようかと途方にくれていたところなの」
エミリアが屈託なく微笑むと、ホリーは仕方のない人だと言わんばかりに控えめな溜息を吐く。それでも、席に着いて
「それでは僭越ながら、説明させて頂きます」
知っていることを分かりやすく教えてくれる。
つい先ほど老婦人に注意された、使用人には毅然として弱みを見せるな、というお説教は聞かなかった事にした。
平常ではそうかもしれない。だが、今は非常時なのだ。差し迫った危機を乗り越える為に、なりふりなど構っていられない。そう考えエミリアは、ホリーに教えを乞うた。それで、大分助かった。やはり一人で孤独に書類を読むのと、分かりやすく話してもらって、すぐ質問出来るのとでは全然違う。
「ありがとう、ホリー。いつも助けられて、助かっているわ。貴女に付いてもらえて、本当に良かったわ」
そう言うと、ホリーは黙って頭を下げるが、心なしかはにかんだように見えた。
そんな風に周囲の手助けを受けながら学習し、歩き方踊り方の特訓を受け、エミリアのお披露目となる舞踏会の当日となった。




