第九話 十二月の海
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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嘉永六年(1853年)十二月、ペリー艦隊が浦賀沖に再び現れた。
知らせは江戸城下に飛ぶように伝わった。今度は夏ほどの衝撃ではなかったが、それでも町の空気が変わった。瓦版売りが走り回り、「黒船帰来!」と叫んでいる。
俺は神田家の庭で、その声を聞いた。
(来た。当たり前だが、来た)
感情は静かだった。驚きではない。安堵でもない。確認、という感じだ。史実の記録が現実になった——ただそれだけのことを、俺は今目の当たりにしている。
だが周囲は違った。
隣の旗本の屋敷から声が聞こえてくる。「また来たのか! 幕府は何をしていたんだ!」
母のかねが部屋の中から「また来たんですか……」と小さな声で言った。
「来ました」
「大丈夫ですか、今度は」
「今度も砲撃はないと思います。本格的な交渉が来年の春から始まります」
かねが静かに俺を見た。「……どうしてそんなことが分かるのですか、伊織」
「調べたことがあって」
「調べた」かねは小さく繰り返した。
妹のさとが廊下を走ってきた。「兄上! 黒船が来たって本当ですか!」
「本当です。落ち着いて」
「また来た! すごい、本当に来た!」さとは興奮していた。
俺は庭に出た。
空は曇っている。冬の江戸の空だ。浦賀は南に六里ほどのところにある。今頃、浦賀奉行所が大騒ぎになっているだろう。
(次は来年三月だ。ペリーは今回は羽田沖まで艦隊を進めてくる。江戸に近づく威圧だ。そして日米和親条約の交渉が始まる)
やるべきことの順番が頭の中で並んでいた。
その日の夕方、浅羽から使いが来た。
「川路様より、神田伊織殿に御用があるとのことです。明日、出頭するようにとのことです」
俺は内心で「来たか」と思った。
「分かりました」
翌日、川路の役所を訪ねた。
部屋に通されると、川路が既に座っていた。表情が前回と少し違う。前回は測るような目だった。今回は——確信の目だ。
「神田。来たな」
「はい。予測通りになりました」
「予測通りに、な」川路がゆっくりと言った。「……やはりこの男は何かを知っている」
独り言のように言ってから、俺に視線を戻した。
「私の見込みでは、お前の言う通りに来年三月の交渉も来る。そうなれば、お前の言葉には一定の信用が置ける」
「ありがとうございます」
「それで」川路が前に身を乗り出した。「次に何が来る。お前の見立てを聞かせろ」
俺は少し考えた。
「来年三月、ペリーは再び交渉を求めてきます。前回より多くの艦隊を連れて、江戸に近い羽田沖まで来ます。目的は威圧と、通商条約の締結です。幕府は開港を要求されます——下田と函館の二港を開くことになると思います」
「函館……それは蝦夷地の港か」
「はい。食料・燃料・修理の提供を求めます。本格的な通商ではなく、まず港を開かせることが目的です」
「なぜそこまで分かる」
「西洋の交渉戦術の分析です。最初の要求を大きくして、譲歩させる。それが彼らの常套手段です」
川路が腕を組んだ。しばらく黙っていた。
「神田、一つ問いたい」
「はい」
「なぜお前は、そんなに急いでいる」
俺は少し驚いた。予想外の問いだった。
「急いでいるように見えますか」
「見える。建白書から伝わる。お前は何かに追われているような文章を書く」
(正確だ)
俺は正直に答えた。
「時間が足りないと思っているからです。あの黒船が来たことで、この国は大きな変動の中に入りました。動くべき時期は今しかない。後になれば後になるほど、選択肢は減ります」
川路が静かに俺を見た。
「……正しい。ただし——」川路がゆっくりと言った。「事を急くと大きな失敗をする。それも正しい」
「はい。仰る通りです」
「急ぐ気持ちは分かった。しかし幕府は動くのが遅い。それは仕組みだ。個人の意志でどうにかなるものではない」
「では、どうすれば」
「積み上げることだ。一つ一つ信用を作る。その信用が積み重なって初めて、上が動く」
俺は黙って聞いた。
「阿部様にこの話を届けることを——検討しよう」
その言葉が、俺の胸の中で大きく響いた。
(阿部正弘への道が、少しだけ見えた)
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。来年三月が来る前に、もう一度来い。交渉の内容についての見解を聞かせろ」
「必ずまいります」
俺は深く頭を下げた。
(川路が阿部への橋渡しを検討している。しかしそれは来年三月の交渉が始まってからだという。ならばその前に、もう一手打てることを証明しなければならない)
冬の空の下、俺は次の手を考えながら帰途についた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




