第八話 最初の試問
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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川路聖謨の役所は、江戸城の内側に近いところにあった。
俺は門番に名を告げて中に通された。廊下を案内されながら、足音が静かに響いた。建物は古いが、きちんと管理されている。書類の整理が行き届いた感じがした。
通された部屋は、思ったより狭かった。
正面に、一人の男が座っていた。
五十代前半か。体格はそれほど大きくない。だが姿勢が正確だ。目が——鋭い。俺を見る目が、最初から計算しているような目だ。
「神田伊織か」
「はい。参上いたしました、川路様」
「座れ」
短い命令だった。俺は座った。
しばらく間があった。川路が俺を見ている。俺は視線を外さなかった。
「建白書を読んだ」
「ありがとうございます」
「礼を言う必要はない」川路が言った。「単刀直入に聞く。十二月に艦隊が戻るとはどういう根拠か」
俺は即座に答えた。
「長崎のオランダ通詞を通じた情報と、西洋の外交交渉の慣習から推測しました」
「慣習とは」
「西洋の外交では、要求を突きつけた後に相手の回答を待ちます。ペリー提督は幕府に書状を渡しました。回答が来なければ、決まった期間を置いて再度交渉を求めにくる。これが慣例です」
「その期間が十二月という根拠は」
「提督のこれまでの行動パターンです。中国での交渉、琉球での交渉——いずれも最初の接触から三ヶ月から六ヶ月で本格的な交渉に入っています。七月に来て、十二月に戻るとすれば五ヶ月。範囲内です」
川路が目を細めた。
「……中国と琉球での事例を知っているのか」
「はい」
「どこで知った」
俺は一瞬、計算した。
「長崎の情報です。通詞を通じて、西洋の記録書の翻訳を入手しました」
「どの記録書だ」
「詳細な書名は控えさせていただきます。情報源を明かせない事情がございます」
川路が静かに俺を見た。長い間だった。
「……嘘か」
「完全な答えではありませんが、嘘ではありません」
「違いを説明しろ」
「私が知っている理由の全てを話すことは、今は適切ではないと判断しております。しかしその知識から導いた予測の内容については、嘘はありません」
また間があった。
「交渉目的が砲撃ではないと断言できる理由は」
「艦隊の編成です。砲撃が目的であれば、あの規模の艦隊は要りません。威圧のための見せ兵器です。実際の戦闘なら、もっと多くの艦と兵士を連れてくる。それより、あの旗艦の積み荷に外交文書の類があることの方が重要です」
「積み荷を確認したのか」
「確認はしていません。ペリーの過去の行動から、必ずそれがあると判断しました」
川路がふっと息を吐いた。
「……まれに見る理解力を持っているな」
俺の中で何かが緩んだ。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い」川路が少し身を乗り出した。「お前の建白書の最後に書いてあった。追加の情報を提供できると。どんな情報だ」
「来年三月以降の交渉の内容——具体的にどんな要求が来るか、どこで落としどころを作れるか。それについての見解です」
「それも分かるのか」
「予測として、です。ただし精度には自信があります」
川路は黙った。長い沈黙の後、はっきりと言った。
「十二月に戻ってこなかったら、お前の建白書は以後受け取らない。それがお前と私の賭けだ。分かったか」
「はい。受け入れます」
俺は深く頭を下げた。
「十二月を待ちます」と川路は言った。それで今日の面会は終わりだと分かった。
役所の門を出て、俺は深く息を吸った。
(通じた。まだ「保留」だが、川路は俺を「面白い」と思っている。それは伝わった)
あとは十二月だ。
現実が俺の言葉を証明してくれる。ただそれを待てばいい。
(しかし——十二月まで何もしないのか?)
焦りが来た。十二月の次は三月だ。三月の次はまた次の事件だ。俺には時間が足りない。阿部正弘が死ぬのは1857年——あと四年しかない。
(川路一人では足りない。阿部への道が欲しい)
でも今は焦ってもしようがない。一歩ずつだ。
十二月を待つだけだと思いながら、俺は同時に「川路が阿部への橋渡しを考えてくれないか」という問いを、頭の隅に置き続けた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




