第七話 川路聖謨という人物
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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浅羽から話を聞くほど、川路聖謨という人物に引き込まれていった。
「川路様は若い頃から頭が飛び抜けていたそうです。御家人の出でありながら、異例の速さで出世された」
浅羽は話しながら、時々声を潜めた。
「勘定奉行を務めたときは、幕府の財政の穴を徹底的に洗い出した。誰も触れたくない帳簿を自ら見て、改善案を出した。幕閣のお歴々が嫌な顔をしても、意見を変えなかったそうです」
「ロシアとの交渉にも出たんでしたね」
「ええ。昨年のことです。下田の件で——あ、これは今後の話です、失礼」
浅羽が口ごもった。俺は気にしないふりをした。
(そうだ、下田・函館開港を巡るロシアとの交渉は来年以降の話だ。川路はそこでも動くことになる)
「蘭学に理解があるとも聞きました」
「そうですね。ご自身で洋書を読もうとされると聞きます。翻訳書でなく、原文を。完全には読めなくとも、努力されていると」
俺はその情報を頭に焼き付けた。
(洋書を読もうとしている——それは大きなことだ。この時代の幕府官僚で、外国語に自ら取り組もうとする者は極めて少ない)
「一つ伺ってもいいですか。川路様は、人の話を聞くお方ですか。それとも最初から決めていて聞かないタイプですか」
浅羽が少し考えた。「……難しい問いですな。聞く方だとは思います。ただし、納得しないと聞きっぱなしにはされない。必ず根拠を問い返す」
「根拠を問い返す。つまり、理屈で動く」
「そうだと思います」
(なら、理屈で戦える。嘘はいらない。事実を積み上げて、論理的に説明する。それが川路に届く方法だ)
最後に浅羽が付け加えた。
「時々、川路様は『何か重大なことが起きたとき、私はどう生きるべきか』というようなことをぽつりと言うことがあるそうです。周りが聞いても何のことか分からないが」
その言葉が、俺の中に引っかかった。
(大きな変動が来ることを、川路はどこかで感じているのかもしれない)
そして翌日の夕方、浅羽から知らせが来た。
「川路様から、神田殿に一度話を聞きたいというお達しがあります」
俺の心臓が少し速くなった。
(来た)
「いつですか」
「三日後の朝です。川路様の役所へ出頭するようにとのことです」
三日後。
「分かりました」
浅羽が心配そうな目をした。「神田殿……川路様は鋭いお方です。いい加減なことは言えませんよ」
「分かっています」
「それと——嘘は、おそらく見抜かれます」
「嘘はつきません。全部は話しませんが」
浅羽が複雑な顔をした。それで十分だと思った。
三日間、俺は準備した。
川路が聞いてくるであろう問いを全て想定し、答えを用意した。
なぜ十二月に来ると分かるのか。根拠は何か。西洋の外交慣習についての知識はどこから来るか。
答えは「長崎の情報と洋書の知識」で一貫させる。具体的には、ペリー提督が中国や琉球で取った行動パターンを挙げる。これは実際に記録が残っていることだから、嘘ではない。
(問題は「どこでそれを知ったか」だ。俺は現代の歴史書で読んだ。でもそれは言えない。「長崎のオランダ通詞を通じた情報として知った」と言えばいい。不完全な答えだが、嘘ではない)
どこまで話し、どこを隠すか。その境界線を何度も確認した。
準備の最後に、俺は窓から江戸の空を見た。
(川路聖謨。史実で幕末まで生き続けた人物。俺が守りたい人の一人だ)
でも今はそれより先のことを考える余裕はない。
まず三日後の試問を突破することだ。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




