第十話 信用の端緒
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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年が明けた。
嘉永七年(1854年)正月。
江戸の町に雪が降った。旗本の屋敷が並ぶ通りは白くなり、子供たちが騒いでいる。正月の賑わいの中に、しかし今年は何かが違う雰囲気があった。
黒船が来る、という話が消えていない。
誰も「来ないだろう」とは言いきれなくなっていた。
俺は正月の三日間を使って、川路に見せるための資料を作った。来たるべき交渉で幕府が何を要求され、どこで折り合いをつけるべきか——その見立てをまとめた書面だ。
川路から再度の呼び出しがあったのは、正月の五日だった。
「来年三月の前に、改めて話を聞きたかった」
川路が部屋に通すなりそう言った。
「用意してきました」
俺は書面を出した。川路がそれを受け取り、黙って読み始める。
俺は待った。
「……この中の『最恵国待遇条項』というのは何だ」
「西洋の条約に含まれる条件です。一国に与えた優遇を、他の国にも自動的に適用する約束です。これが入ると、後で不平等な条件を各国に与え続けることになります」
「つまり、一国に対して有利な条件を与えると、全ての国に同じ条件を与えなければならない」
「はい。幕府はこの仕組みを理解していないままで条約を結ぶ危険があります」
川路が書面から目を上げた。「お前はこれを知っていて、どうするつもりだ」
「交渉担当者に伝えることができれば——少なくとも、この条項が入った場合の意味を理解した上で判断してほしい」
「その交渉担当者に俺を含めることを期待しているのか」
「はい」
率直に言った。川路が少し目を細めた。
「……正直だな」
「隠しても分かると思いましたので」
「正解だ」川路が短く言って、書面に視線を戻した。「続きを話せ」
「開港の条件についてです。下田と函館の二港を求められます。食料・燃料・修理の提供が主な内容で、本格的な通商はまだ求めてきません。つまり——今回の交渉は序の口です」
「序の口?」
「次の交渉で、本格的な通商条約を求めてきます。それが二年から三年後です。そちらの方が、はるかに難しい交渉になります」
川路は静かに聞いていた。
「……お前の情報が本当に正しいとすれば、幕府は今から準備をしなければ間に合わない」
「そう思っています。だから急いでいるのです」
川路が書面を机に置いた。
「阿部様にこの話を届けることを検討する、と先日言った。その考えは変わっていない。ただし——」
「ただし?」
「阿部様に会うためには、お前のことを私が保証する必要がある。今の段階では、私自身がお前を百パーセント信じているとは言えない。三月の交渉の後、お前の予測がどれだけ正確だったかを確認してからだ」
「分かりました」
「急くな」川路が穏やかに言った。「幕府を動かすには、信用を積み上げるしかない。お前はまだその最初の端緒を作ったばかりだ」
俺は頷いた。
その言葉は正しかった。川路の言う通りだ。俺は先を急ぎすぎていた。
「もう一つ聞いていいか」川路が言った。
「はい」
「阿部様のお体が少々優れないと聞く」川路が何気なく言った。「まあ、政務が多忙ですからな」
俺の中で、何かが引っかかった。
(阿部正弘は1857年に急死する。三十九歳で。その前から体調が悪かったはずだ。史実では誰も深刻に受け止めなかった。だが——俺は知っている。そのカウントダウンが、もうすでに始まっているかもしれない)
「……そうですか」と俺は穏やかに答えた。
「大したことではないかもしれないが」川路は続けた。「多忙すぎる人物というのは、気がつくと限界を超えているものだ」
「仰る通りです」
面会が終わって、俺は役所の外に出た。
冬の風が頬に当たった。
(川路が阿部への橋渡しを考えている。しかし三月まで待つ。ならばその前に、俺はもう一手打てることを証明しなければならない。そして——阿部正弘の体のことも、頭に置いておかなければならない)
まだ遠い。まだ遠いが、確かに少しずつ近づいている。
俺は江戸城の方角を見た。見えない。だが確かに、あの先に阿部正弘がいる。
第一章が終わった。無力な旗本が、最初の足場を得た。だがここからが本番だと、俺は分かっていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




