第十一話 川路の試験
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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「もう一度、聞かせてほしい」
川路が書面を机に置いた。目が厳しい。
「来年三月の交渉で、最も避けるべきことは何か。具体的に書いてくれ」
それが川路からの次の課題だった。
翌日、俺は書いたものを持って川路のもとへ行った。
三点ある。一つ目、最恵国待遇条項。二つ目、関税自主権の喪失。三つ目、開港場の数と場所。
「読んだ」川路が言った。「一つずつ説明しろ。最恵国待遇から始めろ」
「はい」俺は姿勢を正した。
「西洋の条約には、ある国に与えた優遇を他の全ての国にも自動的に適用する、という約束が含まれることがあります。これを最恵国待遇と呼びます」
「つまり」川路が口を挟む。「一国に下田を開けば、他の国にも同じ権利を与えなければならない」
「そうです。そしてこの条項が恐ろしいのは、後から別の国と条約を結ぶたびに、最初の条件が引きずられることです。条件が悪くなる一方の仕組みが、法的に固定されてしまいます」
「関税自主権は」
「輸入品にかける税率を、日本が自ら決められなくなることです。税率を相手国との協議で決めると書かれると、事実上、相手の言い値で貿易が決まります」
「なぜそれが問題なのか、具体的に言え」
「例えばイギリスの布地が安く大量に入ってきた場合、日本の製造業は価格で太刀打ちできません。税をかけて国内産業を守る手段がなければ、経済が外国依存になります。さらに税収が減り、幕府の財政を圧迫します」
川路がしばらく黙った。
「……これを知っているのは、どのくらいの人間か」
「幕府内では、ほとんどいないと思います」
「長崎の通詞では」
「一部は知っているかもしれません。しかし条約の文言として整理できている人間は」
「少ないと」
「はい」
川路が腕を組んだ。何かを考えている顔だ。
「最恵国待遇が最も危険だと言ったな。その根拠をもう一度」
「連鎖するからです。最初に米国に与えれば、英国が同じものを要求する。英国に与えれば、露国が要求する。これを一度始めると止まらない。関税は後で改善できる可能性がありますが、最恵国待遇は鎖のようなもので、外すのが極めて難しい」
「…………」
川路が静かに頷いた。一度だけ、深く。
「よし」
その一言が、俺の緊張を解いた。
「一つお願いがある」川路が言った。「この最恵国待遇の件は、岩瀬忠震に話を聞かせてやってくれないか」
「岩瀬……忠震様ですか」
「目付の中で外交に最も長けた男だ。来年の交渉には彼が出る可能性が高い。お前の知識が必要だ」
岩瀬忠震。
知っている。この時代の幕府で最も優秀な外交官僚の一人だ。そして——安政の大獄で失脚し、そのまま憤死する人物でもある。
(守らなければならない人だ)
「分かりました。いつでも」
川路が立ち上がった。対話は終わりだ。
「阿部様への書状を準備した」川路が言った。「老中首座へのお取次は容易ではない。しばらく待て」
「……どれほど」
「急くな、と言ったはずだ」
「はい。失礼しました」
俺は深く頭を下げた。
(川路が阿部への橋渡しを検討している。その間に、岩瀬忠震という人物と話す機会ができる)
役所を出ながら、俺は「これは予想より速く進んでいる」と思った。
しかしその確信は、少しだけ怖くもあった。速く進むほど、次の障害も大きくなる。
「どれほど待てばいい」という焦りを、俺は静かに飲み込んだ。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




