第十二話 岩瀬忠震
本作は全70話完結予定です。
毎日5話ずつ、07:10 / 12:10 / 18:10 / 20:10 / 22:10 に更新予定です。
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岩瀬忠震は、川路の役所の一室で待っていた。
三十五歳。細身で、顔の輪郭が鋭い。目が——何かを分解しようとするような目だ。
「神田伊織か」
俺が入るなり、岩瀬がそう言った。挨拶もなかった。
「はい」
「川路殿から聞いている。座れ」
俺は座った。岩瀬が正面から俺を見る。川路の測るような目とは違う。岩瀬の目は「使えるかどうかを一秒で判断しようとしている」目だ。
「最恵国待遇の件を話してくれ。川路殿が『直接聞いた方がいい』と言っていた」
俺はそのまま説明した。川路に話した内容を繰り返す形だ。
ところが岩瀬が途中で遮った。
「それは私も気になっていた」
俺は少し驚いた。
「……知っていたのですか」
「概念は知っている。ただし、それが条約文にどう入るかは、正確には把握していなかった。続けてくれ」
俺は続けた。最恵国待遇の連鎖構造、関税自主権の問題、開港場のリスク。
岩瀬は聞きながら、時々手元の書状に何かを書き込んでいた。
「では」岩瀬が書状から顔を上げた。「それを外す交渉は、どうすればよい」
そこが問いだった。
俺は少し考えた。
「完全に外すことは、おそらく難しいです。ペリーは強硬ですし、米国には他の列強に対する牽制の意味もある。ただ——」
「ただ?」
「双務的にする、という交渉は試みることができます。『米国が日本に最恵国待遇を与えるなら、日本も米国に同条件を与える』という形にすれば、一方的な不均衡ではなくなります」
岩瀬がわずかに目を細めた。
「……それを交渉で持ち出せば、ペリーは拒否するか」
「拒否すると思います。しかし記録に残ります。日本が要求したという記録が」
「それが後で使えると」
「はい。将来の条約改正交渉で、日本側が主張できる根拠になります」
岩瀬が腕を組んだ。
長い間があった。
「神田」岩瀬が言った。
「はい」
「お前はどこで外国のことをそこまで勉強したのか」
来た、と思った。
「読書と人脈です」
「どんな読書だ」
「長崎の通詞を通じて入手した洋書の翻訳書です。それと、オランダ人商館員と接触した者から聞いた話を集めました」
岩瀬が黙った。
「……お前の読書は、私が読んだどの本とも違う何かがある」
「どういう意味ですか」
「本から来た知識ではなく、実際に経験した者の知識のように見える」
俺は答えなかった。
岩瀬が「まあいい」と言った。
「一つ聞くが——もし幕府が変わらなければ、この国はどうなると思う。率直に言ってくれ」
俺は迷わず言った。
「植民地になります。時間の問題です」
岩瀬の顔が少し動いた。
「……そこまで言うか」
「言います。アジアですでに起きていることです。中国が今、アヘン戦争の結果として国土の一部を西洋列強に割譲しています。それは幕府も知っているはずです」
「知っている」
「では、それが日本に起きる可能性を、幕府は本気で考えているでしょうか」
岩瀬は答えなかった。
「もし幕府が変わらなければ、それを変える機会はない」岩瀬が静かに言った。
「変わります」俺は言い切った。「変えます」
岩瀬が驚いたような顔をした。一瞬だけ。
「……大きな口だな」
「根拠があります」
「聞かせてほしいところだが」岩瀬が立ち上がった。「今日はここまでだ。続きはまた来い」
俺は頭を下げた。
岩瀬が部屋を出る前に振り返った。「川路殿に言っておく。この神田という男、使えますと」
俺の中で、何かが温かくなった。
(岩瀬が川路に「使える」と言った。川路は既に阿部への書状を準備してくれている。あとは阿部様が実際に動くまで——俺には待つことしかできない)
この人を守る。それが今の俺の役割の一つだと、改めて確信した。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




