第六十八話 後世への手紙
夜、一人だった。
燭台の前に座って、俺は筆を取った。
(書こうと思っていた。いつかは書かなければ、と思っていた。今日が、その日だ)
紙が白かった。どこから書くか、少し考えた。
それから、書き始めた。
——未来の誰かへ。
もしこれを読んでいるならば、俺は1860年代の江戸にいる。
俺の名前は、神田伊織と言う。
しかし——本当は、別の名前があった。別の時代から来た人間だ。この時代では言えないことを、これを読む誰かには知っておいてほしい。
俺は幕府を守ろうとした。
正確には、幕府の中で生きている人々を守ろうとした。川路聖謨という人間が、岩瀬忠震という人間が、勝海舟という人間が——この国の未来のために動いていた。俺はその人たちのそばで、できることをした。
成功したかどうかは、これを読んでいる人の方が知っているかもしれない。
しかし——俺はここで、やり遂げようとしていた。それだけは確かだ。
もし俺が、徳永家に繋がる人間に届くなら——
俺はやり遂げた、と伝えたい。
そしてもう一つ。この時代は、暗い時代ではなかった。本当の幕末を見た俺には、そう言える。混乱の中にも、志のある人間がいた。先を見ようとしている人間がいた。それを忘れないでほしい。
1860年、神田伊織(または徳永蓮)
——
書き終えて、俺は紙を見た。
(これでいい)
字が、少し揺れていた。筆に慣れていないせいもある。しかし読めないことはない。
どこに隠すか、少し考えた。
神田家の家財の中に、古い箱がある。誰も開けない場所だ。そこでいい。百年後に誰かが見つけるかもしれない。見つけなくてもいい。
(書いたことに意味がある。残したことに意味がある)
箱に入れながら、俺は現代のことを思った。
徳永蓮として生きていた日々。会社。満員電車。スマートフォン。あの世界が遠かった。
(俺はもう、帰りたいとは思っていない——いつからだろう)
気がつけば、この時代に根がついていた。川路に頼まれた時。阿部に「頼む」と言われた時。澄が「味方です」と言ってくれた時。
これが俺の場所になっていた。
手紙を隠した後、俺はしばらく部屋に座っていた。
(全部終わったら、これが形見になるかもしれない。しかし——まだ終わっていない)
幕府の改革は続く。薩長は止まらない。
でも俺はここにいる。この時代に、いる。
それが全てだった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




