第六十話 嵐の前夜
雪が降り始めていた。
江戸の冬は、白くなる。今年は特に寒かった。安政六年——いや、もう万延元年になる。
俺は一人で、夜の部屋にいた。
(水戸の尊攘派が動いている)
その情報を掴んだのは、偶然に近かった。川路の人脈の端から流れてきた言葉。「水戸の浪士たちが江戸に集まっている。何かを計画している」という断片。
しかし俺には、断片だけで分かった。
(1860年3月3日。雪の桜田門外。井伊直弼暗殺——これが近い)
問いが来た。
(介入するか)
史実では、井伊直弼は桜田門外で暗殺される。その後、幕府の権威が急速に落ちた。大老という権力の中心が消えて、政争がより混乱した——しかし同時に、安政の大獄も終わった。
(もし俺が介入して、井伊を守ったとしたら)
守れたとして——井伊は大老として政権を握り続ける。安政の大獄が続く。岩瀬も川路も、また危険にさらされる。改革派への圧力が長引く。
(だから守らない方がいいのか)
しかし守らないということは——人の死を知りながら、何もしないということだ。
(第三の道があるか)
俺は何度も考えた。暗殺を防がず、しかし全く関与しないでもない。何か別の——。
(ある)
一つだけ、形が見えた。
翌日、川路に会った。
「川路様、水戸の動きに注意が必要です」
「水戸の動きとはどういうことですか」川路が顔を上げた。
「……何か大きなことが起きるかもしれません。もう少し待ってください」
「もう少し、か」川路が静かに俺を見た。「お前が『待ってくれ』と言う時は、何かある」
「……はい」
「分かった。待つ」川路が言った。「しかし、お前が判断したら教えてくれ」
「必ず」
その夜、一人で考え続けた。
(介入するか、しないか、別の道か——あと数週間しかない)
答えはまだ出ていなかった。
珍しいことだった。俺は、判断が遅れることを好まない。しかし今回は——軽く決められない。
(人の命が関わっている。しかし関わっているのは、幕府の未来でもある。一人の命と、幕府の千人・万人の命——そういう計算が正しいのかも、分からない)
答えを出さないまま、夜が更けた。
雪が静かに積もっていた。
(1860年3月3日。桜田門外——その日が来る)
俺には、まだ時間があった。しかし時間は、止まらなかった。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




