第五十八話 川路の覚悟
「川路様、退くことを考えてください」
川路は俺の言葉を聞いてから、しばらく黙っていた。
「退く」川路が繰り返した。「岩瀬のように、か」
「はい。地方への異動か、役職の縮小か——何らかの形で、中央の標的から外れることが必要です」
「……」川路が窓の外を見た。「神田、私は老いた」
「川路様——」
「お前や岩瀬のように動くことは、もう難しい」川路が続けた。「体も知識も、若い頃の切れがない。しかし——」
川路が俺を見た。
「私が退けば、誰が残る」
俺は何も言えなかった。
「私は幕府の中にいる人間だ。幕府が崩れる時に外に出ることが——武士の生き方か」
(この言葉は……反論できない。武士の論理として、正しい。しかし——)
「川路様」俺は言った。
「何だ」
「あなたには、後で生きていてほしい。何としても」
初めて感情のまま言った言葉だった。
川路が俺を、長い間見た。
「……神田、お前は私に生きていてほしいのか」
「はい」
「理由を聞いてもいいか」
「あなたが必要だからです」俺は言った。「この国に。幕府に。川路聖謨という人間が、これから先に生きていることが——必要なんです」
「俺が、か」川路が静かに言った。「この老いた役人が」
「老いた役人ではありません」俺は言った。「川路様は——この幕府で、最も長く制度を支えてきた人間です。あなたが後で生きていれば、幕府が何かを失っても、何かを残せる。あなたが死ねば——取り返しのつかないものを失います」
沈黙があった。
川路が目を閉じた。
(史実では川路は安政の大獄の後、謹慎処分になった。そして幕末の混乱の中で、自刃した。それを俺は知っている。だからこそ——)
「分かった」川路が言った。
「川路様——」
「死ぬつもりはない」川路が言った。「しかし退くつもりもない」
俺は一瞬、止まった。
「……それは」
「幕府の中にいながら、生き延びる方法を考える。それがお前の言う『戦略的後退』というやつだろう」川路が俺を見た。「お前の言葉を借りるなら、だが」
俺は小さく息を吐いた。
「……それなら、方法があります」
「聞かせてくれ」
「役職の縮小ではなく——役割の変更です。前面に出る仕事から、後方の記録や制度整備に移る。見えにくい場所で、見えにくい仕事をする。標的にはなりにくくなる」
「隠れる、ということか」
「見えない場所にいる、ということです」
川路が少し笑った。
「……お前と話すと、いつも言葉が変わる」
「変わっていません。正確にしているだけです」
「次は勝の番か」川路が言った。
「はい。勝殿は——おそらく自分で最善の道を選ぶと思いますが」
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




