第五十七話 宮里澄の問い
「神田様」
澄が俺を呼んだのは、普通の仕事の時間ではなかった。
夕方、誰もいない部屋だった。澄が俺の向かいに座った。いつもの澄の顔で——しかし何かが違った。
「聞いてもいいですか」澄が言った。
「何でしょう」
「あなたはいつも、先を知っているように動きます」
俺は黙った。
「岩瀬殿のことも、阿部様のことも、帳簿の件も——あなたは常に、私より早く状況を読んでいた。なぜですか」
「……」
「教えてください」澄が静かに、しかしはっきりと言った。「なぜですか」
「……言えません」
「言えないのですか」澄が問い直した。「それとも、言いたくないのですか」
俺は一瞬止まった。
(どちらだ。言えないのか、言いたくないのか)
「……両方です」
澄が俺を見た。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。ただ、真剣に見ていた。
「嘘はつかないのですね」澄が言った。
「……嘘をつくつもりはありません。しかし全部は言えない。それが正直なところです」
「なぜ言えないのですか」
「言えば——あなたが危険になる可能性があります。あるいは、俺のことを信じられなくなる可能性がある」
「どちらですか」
「分かりません」俺は言った。「どちらもかもしれません」
静かな時間が流れた。外で風が動く音がした。
「……分かりました」澄がやっと言った。「今は問いません」
「澄殿——」
「でも」澄が続けた。「いつか、教えてくれますか」
「いつか」俺は言った。
(その日が来るかどうか、俺には分からない。しかし——その日が来てほしいと、思っている)
「ただ」俺は言った。「一つだけ、確かなことがあります」
「何ですか」
「俺があなたを信頼していること。あなたに感謝していること。それだけは——本当です」
澄が少し目を伏せた。
「なぜ私は」澄が静かに言った。「こんなに、あなたを信頼できるのでしょう。自分でも不思議です」
(俺も不思議だ)
「……ありがとうございます」俺はそれだけ言った。
その夜、屋敷への帰り道で、俺は川路のことを考えた。
(澄との対話は後で考える。今は川路だ。川路が「逃げない」と言っている。どう説得する)
そう頭を切り替えようとしながら、しかし澄の「いつか教えてくれますか」という言葉が、ずっと頭の端に残っていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




