第五十六話 岩瀬の危機
「蟄居命令が出る前に動いてください」
俺は川路に言った。
「蟄居命令とは——」
「外出禁止と役職剥奪の前段階です。それが出てからでは遅い。その前に、地方の小さな役職への異動を先に動かす。形は左遷ですが——逮捕よりは格段にいい」
「それができるか」俺は川路に人事の手続きを考えてもらった。
川路は「できないことはない。しかし急がなければならない」と言った。
「急いでください。一日が惜しいです」
二日後、岩瀬への異動の書類が動いた。
岩瀬を呼んだのは、その翌朝だった。
「地方への異動が決まりました」川路が岩瀬に言った。「すぐに江戸を離れてください」
岩瀬は黙っていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、分からない顔で書類を見ていた。
「……そうか」岩瀬がやっと言った。「これが最善か」
「今は、そうです」俺は言った。「少しの間だけ、遠くで待っていてください。状況が変わればすぐに呼び戻します」
「状況は変わるか」
「変えます」
「断言できるのか」
「できません。しかし——変えるために動きます。それだけは確かです」
岩瀬がしばらく俺を見た。それから小さく頷いた。
「分かった」
江戸を離れる前日の夕方、岩瀬が一人で来た。
「神田」岩瀬が言った。
「はい」
「お前に感謝している」
「俺は——」
「礼を言わせてくれ」岩瀬が遮った。「お前がいなければ、私は気づかないうちに潰されていた。それだけは分かっている」
俺は何も言えなかった。
「……またいつか」岩瀬が言った。「その日まで」
「必ず」
岩瀬が歩いていった。その背中が、曲がり角で消えた。
(守れた。完全には守れなかったが——最悪の事態は避けた)
「神田」川路が後ろから来た。「お前は最善を尽くした」
「左遷させてしまいました」
「逮捕より左遷の方が、百倍いい」川路が言った。「お前を責める気はない」
「……ありがとうございます」
「しかし」川路が言った。「次は私の番だ。神田、私の場合はどうする」
俺は川路を見た。
(川路様の場合。史実では島流し——新潟奉行から江戸に帰る途中で逮捕、隠居謹慎。しかし俺は、川路様には違う道があると思っている)
「考えています」俺は言った。「川路様の場合は——少し違う守り方があります」
「聞かせてくれ」
「もう少し時間をください。しかし必ず、答えを出します」
川路が頷いた。信頼してくれていた。
その信頼が、俺の背に重く乗っていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




