第五十五話 粛清の始まり
「最初の逮捕者が出ました」
川路の声は、静かだった。しかし俺には、その静けさの中にある震えが分かった。
「誰ですか」
「小浜藩士です。一橋派に近い人物が——昨夜、連れていかれた」
(来た。安政の大獄が、本当に始まった)
俺の頭の中で、名前が並んだ。史実で粛清された人々。岩瀬忠震。川路聖謨。その他の改革派。
「川路様」俺は言った。「次に誰が来るか——ある程度の予測があります」
「……どうやって知った?」
「今は説明できません。しかし信じてください」
川路が俺を見た。長い間、見た。
「分かった。信じよう。何をすべきか」
「岩瀬殿と川路様の名前が——上位にある可能性が高いです。岩瀬殿については、今すぐ中央から距離を置いてもらう必要があります。地方官として派遣する形で、一時的に安全な場所に移す」
「それが逆に怪しまれないか」
「そのリスクはあります。しかし動かない方が、もっと危険です」
川路が頷いた。
「岩瀬に話す。一緒に来てくれ」
岩瀬は、川路の書簡を読みながら、しばらく黙っていた。
「……私は動かなければならないのか」岩瀬が言った。
「一時的に中央から離れることが、一番安全です」俺は言った。「逃げるのではありません。時間を買うのです」
「時間を」
「嵐には、必ず終わりがあります。嵐が過ぎた後に生き残っていれば——また動けます」
岩瀬がしばらく考えた。
「……お前が言うなら」
その言葉が、俺の胸に重く当たった。
(この信頼を裏切れない。絶対に)
「川路様の場合は」岩瀬が聞いた。
「少し違う動き方があります」俺は言った。「川路様には——川路様にしかできない守り方がある」
「具体的には」
「今は言えません。しかし考えています」
川路が「分かった」と言った。
「岩瀬」川路が岩瀬を見た。「お前を左遷させることになるかもしれない。それは——本当に申し訳ない」
「左遷でも、生きていた方がいい」岩瀬が川路を見た。「神田の言う通りだ。形より実質だ」
その夜、別の情報が届いた。
「神田伊織という旗本について——井伊大老の周辺で調べが入っているという話があります」
俺は一瞬、止まった。
(俺自身も標的になりかけている。これをどうする)
岩瀬を守るための時間は、限られていた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




