第五十四話 大老就任
安政五年、四月。
井伊直弼が大老に就任した。
「来ました」俺は川路に言った。「想定通りです」
「動揺していないのか」川路が俺を見た。
「しています。でも今、動揺を見せている時間はありません」
川路が少し笑った——いや、苦笑いに近い顔をした。
「神田、どうする」
「次は粛清が来ます」俺ははっきりと言った。「大老就任の後、最初に来る動きは——一橋派の中心人物への圧力です。標的になりそうな人から、先に動かしてください」
「動かすとは」
「地方への出向や、役職の変更です。表舞台から少し距離を置かせる。直接の攻撃を受けにくい場所に——」
「逃げるのか」川路が言った。
「逃げるのではなく、守るために退くのです」俺は答えた。「戦略的後退と逃亡は違います。今は力を温存して、次の機会に使う」
川路が俺を見た。長い間、見ていた。
「……お前は武士として生まれるべきではなかったかもしれない」
褒めているのか、呆れているのか、分からない言葉だった。
「そうかもしれません」俺は言った。
「岩瀬はどうする」
「最優先です。岩瀬殿はハリスとの交渉に直接関わった。一橋派の中でも、最初に標的にされる可能性が高い。今すぐ、役職を一段下げることを提案します——本人が受け入れれば」
「岩瀬はプライドがある」
「分かっています。しかし彼が生き残ることの方が、プライドより大事です。俺が直接話します」
「川路はどうだ」岩瀬が別の件で席を外した隙に、俺は川路に言った。「川路様自身は」
「私か」川路が少し驚いた顔をした。
「川路様も標的になります。準備が必要です」
「私は——」川路が止まった。「逃げることは考えていなかった」
「逃げません。準備をするんです。違います」
(この人の武士としての意地と、俺の現代的な現実主義が、ここでぶつかる)
「俺は……お前の言い方が、時々分からなくなる」川路が言った。
「それでいいです」俺は言った。「俺の言い方が川路様に全部通じる必要はありません。しかし、やることだけ、信じてほしい」
その夜、間接的に情報が届いた。
「井伊大老が——神田伊織という旗本を調べろ、と言った、という話が出ています」
俺の名前が、向こうに届いた。
(……来た。これからが本番だ)
俺は静かに、次の動きを頭の中で組み始めた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




