第五十三話 一橋か南紀か
「老中会議で——決まりそうだ」
川路の声が、低かった。
「南紀派が、か」俺は言った。
「そうだ。14代将軍は徳川慶福。南紀派の推す人物で決まる方向に——」
「最後の機会があります」俺は言った。「阿部様の推薦状を持って老中に直談判する。今からでも遅くない」
川路が俺を見た。少し黙った。
「越権行為になるぞ」
「なりますか」
「旗本が老中に政治的主張を持ち込むことは——身分を超えた行動だ。問題視される可能性がある」
「問題視されても、届けば意味があります」
「……やるか」川路が言った。「俺も一緒に動く」
しかし翌日、答えは出た。
「阿部老中の推薦状は——病床にある方の書状として、正式な決定権を持つものではない」という老中の判断が伝わってきた。
俺は川路と顔を見合わせた。
(……そうか。法的には問題ない。しかし政治的には、弱くされた。阿部様の名前を利用されながら、同時に阿部様の書状を無効化した。見事な二枚舌だ)
「……残念だが」川路が静かに言った。
「はい」
その夕方、一橋家の屋敷を訪ねた。
「決まったか」慶喜が聞いた。
「まだです」俺は言った。「しかし——厳しい」
慶喜が少し黙った。
「正直に言うな、お前は」
「嘘をついても意味がありません」
「そうだな」慶喜が窓の外を見た。「お前は最後まで動いてくれた。それは分かっている」
「申し訳ありません。力が届きませんでした」
「謝るな」慶喜がはっきりと言った。「謝る必要はない。やるべきことをやった。結果が出なかっただけだ」
(この人は、そういう言い方をする)
しばらく沈黙があった。
「神田」慶喜が言った。「いつか俺が幕府を動かす時が来る。14代が誰であれ、15代は——俺かもしれない」
「はい」
「その時はまた、お前の力を借りたい」
俺は頷いた。
(15代。最後の将軍。それが慶喜だということを、俺は知っている。しかしその「最後」を変えるために、今の俺はいる)
「必ず」俺は言った。
「しかし——今は、負けた」慶喜が静かに言った。「負けは負けとして受け取る」
「今回は、そうです」俺は言った。「しかし全部負けたわけではありません。次の手があります」
「何だ」
「まだ、次の機会があります。諦めません」
慶喜が少し口端を動かした。
「……そういうやつだったな、お前は」
その夜。予想通りの知らせが届いた。
「14代将軍決定と同時に、井伊直弼が大老に就任する」
来た。史実通りだ。
(でも——俺は準備している)
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




