第五十二話 帳簿の真実
澄が資料を広げた時、俺はしばらく無言でそれを見た。
丁寧な字で書かれた表。数字の流れ。「雑費」という項目が、いくつもの経路を辿って、別の場所に消えていた。
「……これは」
「幕府の予算の一部が」澄が言った。「守旧派系の藩への非公式な資金援助に使われています。帳簿の上では『物資調達』や『使者費用』と書かれていますが——実際の記録と照合すると、実態がない支出です」
「どれくらいの規模だ」
「多くはありません。しかし継続的です。小さな金額を、長い時間をかけて流している。それが積み重なって——」
澄が数字を指した。
「これだけの額になります」
(やはりそうだった。幕府の内側から、守旧派への資金流用。これは政治的な腐敗の証拠だ)
「澄殿、これを使うつもりですか」俺は聞いた。
「私は使いません」澄が静かに言った。「あなたに渡すために作りました。使うかどうかは——あなたが決めることです」
「使うかもしれない。しかし今すぐではない」
「いつですか」
「……一番苦しい時です」俺は言った。「この資料は切り札です。切り札は最後まで持っておく」
澄が俺を見た。
「これを私が持っているのは——危険ではないですか」
「危険です」俺は即座に言った。「ですから今すぐ、私のところに預けてください」
「……あなたのところにあっても、同じように危険では」
「私が危険を引き受けます。あなたには引き受けてもらいたくない」
短い沈黙があった。
「……あなたを信頼します」澄が言って、資料を俺の方に押した。
俺はその資料を受け取りながら、澄の言葉の重さを感じていた。
(この人はいつも、「信頼します」と言う前に一拍置く。それは言葉を選んでいるからだ。「信頼する」という言葉を軽く使わない人間だ)
「澄殿」俺は言った。「この件に関わったことを、後悔させません」
「後悔はしていません」澄が即座に言った。「最初から自分で選びました」
「……そうですね」
「ただ——」澄が少し目を伏せた。「なぜ私はここまであなたを信頼しているのか、自分でも分からないんです」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
(俺も分からない。この人が数字の向こうに人を見る目を持っているから。それだけで説明がつくのかどうか)
「大事にします」俺は資料を折りながら言った。「必ず役に立てます」
屋敷を出た夜、川路からの知らせが届いていた。
「大老就任が目前だ。もう時間がない」
俺は切り札を懐に入れながら、歩き始めた。
続きも本日更新予定です。よろしければ次話もお付き合いください。




